伝記
アンティオコス7世シデテスは、セレウコス朝シリアの王(在位は紀元前138年から紀元前129年)である。デメトリオス1世ソテルの子で、デメトリオス2世ニカトルの弟にあたる。シデで育ったことから、「シデの人」を意味するシデテスの添え名で呼ばれた。生年は紀元前159年ごろとも紀元前167年ごろともいわれる。のちにこの王朝の最後の本格的な君主とも評され、その死を境に王国は大きく衰えていった。
兄デメトリオス2世がパルティアの王ミトラダテス1世に敗れて捕虜となると、アンティオコスが王位に呼び出された。彼は兄の妻クレオパトラ・テアと結婚した。この結婚は、夫がパルティアの王女を娶ったことにクレオパトラ・テアが不満を抱いていたためともいわれる。二人の間には、のちのアンティオコス9世キュジケノスが生まれた。のちにこの子は王位を主張して内戦を引き起こすことになる。即位した彼はまず、アンティオコス6世から王位を奪っていたディオドトス・トリュフォンの討伐にかかった。ドラで破り、アパメイアで包囲し、トリュフォンは追い詰められて自ら命を絶ったとされる。長い王朝の危機のあとで、彼は王国の力を立て直し、内部の崩壊を食い止めようとした。目指したのは、曾祖父アンティオコス3世や大叔父アンティオコス4世の時代の状態にまで国を戻すことだったという。
兄の捕縛を機にユダヤは独立を宣言し、港町ヤッファも併合していた。ユダヤに対しては、はじめハスモン家のシモン・マカバイオスと和解を図り、書簡を送ったという。しかしトリュフォンに勝つと、使節を送って貢納やセレウコス朝の宗主権の承認、ヤッファや、セレウコス朝の守備隊が駐屯するエルサレムの城塞(アクラ)の返還を求めた。交渉が成らず、将軍ケンデバイオスの軍を送ったが、シモンの息子ユダとヨハネにモディンで敗れた。のちシモンが娘婿プトレマイオスに殺され、ヨハネ・ヒルカノスが後を継いだ。プトレマイオスの働きかけもあって、アンティオコスは再びユダヤに進軍し、エルサレムを攻めた。ヒルカノスは約1年の包囲ののち、紀元前132年に降伏したとされる。城壁は壊され、住民は貢納と兵役を課されたが、アンティオコスはヒルカノスの地位と自治を認め、宗教には干渉しなかった。そのためユダヤ人は彼を「敬虔な者」を意味するエウセベスと呼んだという。一時的にユダヤを属国としたが、その独立は彼の死によって回復した。
続いて東方の領土の奪回に向かい、パルティアと戦った。パルティアはそのころ、クシャーナ人の侵入にも悩まされていたという。メソポタミア、メディア、バクトリアを取り戻したとされ、紀元前130年には大王を称した。パルティア王フラアテス2世との交渉では、ミトラダテス1世が奪った領土の返還、捕虜の兄デメトリオス2世の引き渡し、多額の貢納を求め、話はまとまらなかった。セレウコス朝の内乱を狙うパルティア側は、デメトリオス2世を釈放した。紀元前129年の初め、冬のあいだにシリア軍の陣営は奇襲を受け、アンティオコスは殺害された。在位9年であった。
敗北によって東方の領土は失われ、中央アジアにおけるギリシア文化も衰えた。パルティアに釈放されたデメトリオス2世は、弟の事業を引き継げず、多くの都市が独立し、王位を狙う者が次々に現れた。王朝は内乱と外国の介入を重ねて統治能力を失い、紀元前64年にはローマに併合されるに至った。
同じ年に亡くなった人物
- セルウィウス・スルピキウス・ガルバ (紀元前144年の執政官) (紀元前 129年)
- スキピオ・アエミリアヌス (紀元前129年没)
- Ptolemaeus of Commagene (紀元前129)
- ガイウス・ブロッシウス (紀元前129)
- クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス (紀元前 129年)
同じ地域に関係する人物
- イブン・スィーナー (1037年没)
- アーレフ・ガズヴィーニー (1933年没)
- マスウード (イラク・セルジューク朝) (1152年没)
- マフムード2世 (セルジューク朝) (1131年没)
- ベッソス (紀元前329年没)