伝記
スキピオ・アエミリアヌス(プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・アエミリアヌス)は、共和政ローマ中期の政務官である。紀元前185年に生まれ、紀元前129年に没した。名門アエミリウス氏族に生まれたが、コルネリウス氏族のスキピオ家に養子に入り、二度にわたり特例で執政官に選ばれた。養祖父の大スキピオが降伏させたカルタゴを破壊し、難航したヌマンティア戦争を終わらせた人物である。大スキピオと区別して小スキピオとも呼ばれる。
実父はルキウス・アエミリウス・パウッルス・マケドニクスで、病弱な大スキピオの長男プブリウスの養子となった。マケドニクスの子のなかでも、最も期待された活発な子だったという。大スキピオの娘コルネリア・アフリカナはグラックス兄弟の母で、その妹にあたるセンプロニアが小スキピオの妻となったため、兄弟とは義兄弟の間柄でもあった。ティベリウス・グラックスは彼のもとで働いて多くを学んだといい、弟ガイウスも彼のもとで従軍している。紀元前168年には実父が指揮する第三次マケドニア戦争に従い、ピュドナの戦いに加わった。追撃に加わって行方不明となり全軍を落胆させたが、返り血にまみれて戻ってきたという逸話が残る。この戦いのあとアカイア同盟の指導者千人がローマへ連行され、騎兵隊長ポリュビオスもそこにいた。ポリュビオスはアエミリウスの家に滞在し、ストア派のパナイティオスとともに小スキピオと兄の家庭教師を務めて、小スキピオと友情を結んだ。紀元前160年に実父が貧しいまま亡くなると、不動産の一部が処分された。
紀元前151年、苦戦が続くヌマンティア戦争では志願する者が減っていた。小スキピオは軍歴を求めて自ら名乗り出て、執政官ルクッルスの下で士官となり、そのため市民の人気を集め、志願兵も集まったという。蛮族との一騎打ちに勝ち、城壁への一番乗りもしたと伝わる。この活躍を聞いた大カトは彼を賞賛した。紀元前150年にはヌミディアのマシニッサに援軍を求めにゆき、マシニッサはかつて大スキピオから受けた恩を忘れず、ヌミディア騎兵の大部分を預けたという。この年の夏、ローマはカルタゴに宣戦布告した。
第三次ポエニ戦争が始まると、小スキピオは紀元前149年から士官として働き、チュニス湖の戦いで活躍した。死の床にあったマシニッサの求めで翌年ヌミディアへ赴くと、王はすでに亡くなっていたが、遺言に従って三人の息子にヌミディアを分け与えた。帰国後、按察官の候補者だった彼を、人々は執政官に選んだ。元老院は担当地のくじ引きをせずアフリカを担当させ、年齢制限を停止する決議も得て、紀元前147年に就任した。海上封鎖を強化し、カルタゴ港の海戦にも勝利して、翌紀元前146年に防壁を破ってカルタゴを陥落させた。ハスドルバルは降伏したが、降伏を勧めていた妻は二人の子とともに炎の中へ身を投げた。燃えるカルタゴを見て小スキピオは涙を流し、いつか祖国も同じ運命をたどるのではないかとポリュビオスに語り、ホメロスの詩句を口ずさんだという。戦利品の多くはシキリアから奪われたものだったため、元の持ち主に返された。カルタゴに塩を撒いたという話は古代の記述になく、後世の創作とされる。
紀元前142年にはムンミウスとともに監察官に選ばれ、国勢調査では328,442人を数えた。閉式の祈りを「この繁栄が永遠に続きますように」に改めたという。紀元前134年、再選が法で禁じられていたため一度は断ったが、元老院と人々に求められて特例で二度目の執政官に選ばれ、ヌマンティア戦争の打開を託された。没年は紀元前129年である。
同じ年に亡くなった人物
- エウメネス3世 (紀元前129年没)
- セルウィウス・スルピキウス・ガルバ (紀元前144年の執政官) (紀元前 129年)
- ガイウス・ブロッシウス (紀元前129)
- クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス (紀元前 129年)
- アンティオコス7世シデテス (紀元前129年没)
同じ地域に関係する人物
- ロッサノ・ブラッツィ (1994年没)
- イータロ・ガリボルディ (1970年没)
- ジュリオ・クローヴィオ (1578年没)
- アレッサンドロ・モモ (1974年没)
- Elio Morille (1998年没)