伝記
アンドルー・ボナー・ローは、1858年9月16日に、カナダのニューブランズウィック州で生まれ、1923年10月30日に没したイギリスの政治家である。父ジェームズは北アイルランドのアルスターの長老派教会の牧師で、母イライザは、彼が2歳のときに亡くなった。5人兄弟の四男で、2歳年下の妹がいる。母の姉妹ジャネットが、グラスゴーから来て、兄妹を育てた。『オックスフォード英国人名事典』によれば、父は陰鬱な性格で、ボナー・ローはその影響を受けたという。1870年に父が再婚すると、ジャネットは帰国することになり、スコットランドの裕福な親族のもとで教育を受けることを、彼に勧めた。この申し出を受けて帰国した彼は、二度とニューブランズウィックに来なかったが、12歳までそこで育ったため、現存する肉声の録音からはカナダ訛りが見受けられる。
スコットランドで学校に学び、1874年に卒業した後、母方の親族が経営する会社に入社した。しかし、親族の家が1885年に自社を経営統合したため、ウィリアム・ジャックズ・アンド・カンパニーに入社し、グラスゴーの鉄鋼市場の仲買業者となった。この会社の創業者は、1885年の総選挙に自由党候補として出馬しており、自分に代わって経営できる人物として、近しい親族の彼が選ばれたという経緯だった。銀行業から鉄鋼業に転身した彼は、事業拡大に成功し、1888年にミドルズブラ、1894年にロンドンで支社を設けた。親族が保守党を支持したこともあり、保守党の社交界に出るようになったが、社交活動に無頓着で、禁酒主義者だったことが人々の注目を集め、保守党指導者への道が開いたという。音楽とダンスを嫌い、食通でもなかったが、ゴルフ、テニス、チェスを趣味とし、後年、政界の同僚が会合に誘うときは、決まってブリッジを餌にしたという。鉄鋼業の経験から、自由貿易はイギリスを利するものではなくなったと信じるようになった。
1890年代に政界進出を検討するようになり、1900年の総選挙で保守党候補として出馬し、自由党候補を破って庶民院議員に初当選した。1901年末に鉄鋼業から手を引いた。1901年2月に、第二次ボーア戦争について初演説をしたが、同日にチャーチルも初演説をしたため、ほとんど注目されなかった。1902年4月に、財務大臣の輸入穀物関税への賛成演説をして称賛され、7月にバルフォア内閣の政務次官に任命された。ジョセフ・チェンバレンが唱える関税改革論、つまり保護貿易論の熱心な支持者となり、第一次世界大戦が始まるまでに、多くの演説をして、党内で注目される人物になった。1906年の総選挙で落選したが、同年5月の補欠選挙で当選して議員に返り咲いた。1909年にロイド・ジョージが予算案を提出すると、「社会主義予算」と糾弾して反対運動を主導した。
1911年にバルフォアが保守党党首を退任した後、党の分裂を恐れた有力者が降り、彼が代わって党首となった。第一次世界大戦中の挙国一致内閣では、植民地大臣、財務大臣などを歴任した。戦後の1922年に保守党と自由党の大連立が解消されると、ロイド・ジョージに代わって首相に就任したが、健康状態が芳しくなく、その翌年に辞職し、ボールドウィンが代わって首相と党首になった。
同じ年に亡くなった人物
- Agostino Richelmy (1923年没)
- ルイ・バルボーザ (1923年没)
- リュイス・ドメネク・イ・ムンタネー (1923年没)
- Eduard Bornhohe (1923年没)
- モリス・ローゼンフェルド (1923年没)
同じ地域に関係する人物
- ムハンマド・アル=バドル (1996年没)
- ジュリアス・ベネディクト (1885年没)
- クリフォード・カーゾン (1982年没)
- マーガレット (スノードン伯爵夫人) (2002年没)
- レスリー・フィリップス (2022年没)