伝記
アレクサンドロス2世ザビナスは、セレウコス朝シリアの対立王である。紀元前150年に生まれ、紀元前123年に没した。在位は紀元前128年から紀元前123年とされる。エジプトの商人プロタルコスの子とされるが、アンティオコス7世の養子、あるいはアレクサンドロス1世の王子を称した。出自については議論があり、古代の歴史家の多くと現代の研究の大勢は、セレウコス家の血を引くという主張を偽りとみている。一方で、アレクサンドロス1世の実子だった可能性もあるともいわれる。通称の「ザビナス」はセム語に由来し、「買われた者」「買われた奴隷」の意とされ、プトレマイオス8世との関係から付けられた侮蔑的な呼び名だという。ただし「神から買われた者」の意にもなりうるとされる。貨幣の図像からは、アンティオコス4世の子孫であることを根拠に王位を主張したことがうかがえる。
背景には、セレウコス朝の王位をめぐる長い内紛があった。セレウコス4世の系統とその弟アンティオコス4世の系統がそれぞれ王位を争い、内戦が続いたのである。紀元前175年にセレウコス4世が没すると、その弟アンティオコス4世が正統な後継者を差し置いて即位し、王朝は二つの系統の争いで引き裂かれた。さらに両王家の婚姻を通じてプトレマイオス朝エジプトが介入した。紀元前128年、セレウコス4世の系統を代表するデメトリオス2世は、義母クレオパトラ2世を助けるためエジプトに侵攻した。クレオパトラ2世は、弟であり夫でもあるプトレマイオス8世と内戦を戦っていた。これに怒ったプトレマイオス8世はシリアの諸都市に反乱をそそのかし、アンティオコス4世の系統の代表と称するアレクサンドロス2世を対立王に立てた。パルティアにメソポタミアを奪われる混乱のなかでの決起でもあった。
アレクサンドロス2世はエジプトの兵を得て、紀元前128年に首都アンティオキアを占領した。アンティオキアやアパメアなどの都市は、デメトリオス2世の専制への反感から彼を王と認めた。紀元前126年(紀元前125年ともいわれる)、ダマスカス郊外の戦いでデメトリオス2世を破った。敗れたデメトリオス2世は妻クレオパトラ・テアのいるプトレマイスに逃れたが拒まれ、ティルスに避難しようとして殺された。こうしてアレクサンドロス2世は、クレオパトラ・テアが治めるプトレマイス周辺を除く王国の支配者となった。
王は親切で寛容な人柄の持ち主として慕われたと伝えられ、ユダヤのヨハネ・ヒルカノス1世とも友好を保った。ヒルカノスは彼をシリア王として宗主と認めていた。しかし、シリアに強い王が立つことを望まないプトレマイオス8世は、姪のクレオパトラ・テアと、その子で共同統治者のアンティオコス8世と同盟した。同盟が結ばれたのは紀元前124年のことである。
アレクサンドロス2世はエジプトの支援を受けたアンティオコス8世に敗れ、アンティオキアに逃れた。そこでゼウス神殿を略奪、その品で兵への支払いをまかなった。略奪の際、ゼウス像の手に置かれたニーケー像を投げ、冗談めかして「ゼウスが私に勝利を与えた」と言ったと伝えられる。この行いに怒った住民に追放され、逃れる途中で捕らえられた。盗賊に捕らえられて引き渡されたともいわれ、紀元前123年、アンティオコス8世の命で処刑されたとみられる。これによってアンティオコス4世の系統は絶え。
同じ年に亡くなった人物
- ヴァースミトラ (紀元前 123年)
同じ地域に関係する人物
- アンティオキアの聖バビラス (251年没)
- タンクレード (ガリラヤ公) (1112年没)
- クリスティアン・アツ (2023年没)
- フロリス3世 (ホラント伯) (1190年没)
- Sextus Julius Caesar (紀元前45)