伝記
バビラス(アンティオキアのバビラス)は、3世紀にシリアのアンティオキアで司教を務めた人物である。在任は237年から253年とも、237年から251年あるいは240年から253年ともいわれ、年代は一定しない。デキウス帝の迫害のさなかに獄中で没したとされ、殉教者として崇敬された。東方正教会やビザンティン典礼の東方カトリック教会では9月4日、ローマ典礼では1月24日が記念日である。バビラスはゼビヌスの後を継いでアンティオキアの司教となり、皇帝ゴルディアヌス3世の時代に在位した十二代目の司教とされる。250年のデキウス帝の迫害の際には揺るぎない信仰告白を行い、投獄されて、その苦しみのために獄中で亡くなったという。カエサレアのエウセビオスもデキウスの迫害中の死を伝えている。ただし最期の様子には食い違いがあり、獄死とする伝えのほかに、ヨハネス・クリュソストモスの説教では斬首されたとされる。また、鎖をつけたまま葬られることを望んだという伝承もある。
ヨハネス・クリュソストモスの説教や殉教者伝には、次のような話が語られる。バビラスは、罪深い行いを理由に、訪れた異教徒の皇帝が教会に入ることを拒み、悔悛者の列に加わるよう命じたというのである。説教は皇帝の名を挙げず、殉教者伝はヌメリアヌスの名を挙げる。しかし同時代のアラビア人フィリップスのことである可能性が高いと考えられている。エウセビオスが、復活祭の徹夜の集会に入ろうとした皇帝を一人の司教が拒んだと記しているからである。後の伝説はこれを敷衍し、若いゴルディアヌス3世の殺害に関わった罪の悔い改めを、バビラスが求めたと述べる。
バビラスは、聖人の遺骸を信仰上の目的で移した最初の例の主としても知られる。351年、カエサルのコンスタンティウス・ガッルスは、アンティオキア郊外のダフネに、バビラスをたたえる新しい教会を建て、遺骸をそこへ移した。ダフネにはアポロンの神殿があり、その異教的な影響を打ち消すことが狙いだった。クリュソストモスの表現では、病人のもとへ医者を連れてくることであった。これは記録に残る最初の聖遺物の移葬とされ、研究者のソージェはこれを証言の残る最初の公式な移葬と述べている。この慣行は、のちの中世には日常的なものとなった。
362年、皇帝ユリアヌスがダフネのアポロン神殿で神託を求めたところ、答えは得られなかった。クリュソストモスによれば、バビラスの遺骸が近くにあるためだと告げられたという。ユリアヌスは石棺を掘り出させて元の埋葬地へ戻させた。数日後の10月22日、神殿で不審な火事が起こり、屋根とアポロン像が焼け落ちた。ユリアヌスはキリスト教徒の仕業を疑ってアンティオキアの大聖堂を閉鎖させ、原因の調査を命じた。アンミアヌス・マルケリヌスは、前夜に信者が灯した蠟燭が原因だという根拠のない噂を伝え、クリュソストモスは落雷によるものだと主張した。
遺骸はオロンテス川の対岸に建てられた、バビラスにささげる教会に改めて葬られた。クリュソストモスは説教の終わり近くでこの教会の建設に触れており、その建設には司教メレティオスが熱心で、自らの手で作業に加わったとされる。焼け跡となった神殿の柱や壁は、20年後にもなお指し示されていたという。中世には、遺骸はクレモナへ移されたと伝えられ、同地にはバビラスをたたえる大きな教会があるという。
同じ年に亡くなった人物
- ホスティリアヌス (251年没)
- クリストフォロス (251年)
- ヘレンニウス・エトルスクス (251年没)
- Alexander of Jerusalem (251年没)
- 司馬懿 (251年没)
同じ地域に関係する人物
- アンティオキアのヨハネス1世 (500年没)
- ベレニケ (紀元前245)
- Alexander of Judaea (紀元前48)
- イブン・ブトラーン (1066年没)
- ユリア・ドムナ (217年没)