伝記
スヴェレ・シグルツソンは、1177年から1202年までノルウェー王だった人物である。ノルウェー史でもっとも重要な君主の一人とされる。生年は1149年とも、1151年ともいわれる。サガによれば、父はウナス、母はグンヒルドで、5歳のとき、一家は、叔父ロエが司教をつとめるフェロー諸島に移った。スヴェレはそこで育ち、司祭になるために学んで、叙階された。1175年に、母から、本当はノルウェー王シグル2世の子だと明かされ、翌1176年に、運命を求めてノルウェーに渡ったという。ただし、サガのほかにこの出自を伝える史料はなく、現代の歴史家の多くは疑っており、否定する人もいる。シグル2世は1155年に、兄インゲ1世の命令で殺されていた。
スヴェレは、国王マグヌス5世に対する反乱集団、ビルケバイネル(白樺脚団)の指導者となった。スヴェレらは1179年にマグヌス王の父を倒し、1182年とも1184年ともいわれるが、フィムレイテの戦いでマグヌス王も倒れて、スヴェレがノルウェーのただ一人の支配者となった。ビルケバイネルは、スヴェレが現れるまでは、小さな活動しかしない集団だったが、彼の工夫を凝らした戦い方で、よく訓練された、しなやかで組織の整った軍に変わった。戦いの前には盾を並べる隊形をとり、接近戦では小さな集団で動いた。背が低かったらしく、王が戦列の先頭に立つ北欧の習わしとは違い、馬に乗って戦った。
王になったスヴェレを苦しめたのは、キリスト教会だった。教会は王の支配から独立した自由を求めており、1163年に、当時7歳のマグヌス5世に戴冠して塗油していた。その教会が戴冠した王を倒したスヴェレを認めることは、教会が王権への影響力を失うことを意味した。司教たちは、ローマの支持を得て、錫杖団(バーグラー)をつくり、スヴェレに挑んだ。大司教エイステインは国を出、かつて司祭としての教育を受けていたスヴェレも、1194年に破門された。1199年ごろには、司教たちに対する弁論『司教に抗する言葉』が、王の名で書かれたとみられる。
スヴェレは、軍事と税制の改革にも努めた。それまでは農家から人を出させて軍役に就かせていたが、農地の開墾が進み、農家が家族単位で農業をするようになると、軍役に応じるのが難しくなった。そこで、農民に課税し、軍役に就く者には税を免除して、税収入で騎士を養う政策をとった。1185年に、スウェーデン王エリク9世の娘マルガレータと結婚して、娘クリスティンが生まれた。ほかの子には、シグル・ラヴァール(1200年没)、ホーコン3世(1180年-1204年)、セシリア、インゲボーがいる。1202年、亡くなる直前に、スヴェレは息子のホーコン3世に、教会との和解を勧めた。1202年3月9日、ベルゲンで死んだ。死後も対立は続いたが、孫のホーコン4世の代には、王がノルウェーを単独で統治するようになった。
同じ年に亡くなった人物
- フィオーレのヨアキム (1202年没)
- ギヤースッディーン・ムハンマド (1202年没)
- クヌーズ6世 (デンマーク王) (1202年没)
- レギナルド (1202年)
- ビルイェル・ブローサ (1202年没)
同じ地域に関係する人物
- クリスチャン・ミケルセン (1925年没)
- インゲボー・ア・ダンマーク (ノルウェー王妃) (1287年没)
- Odd Frantzen (1977年没)
- スタイン・ロッカン (1979年没)
- アルマウェル・ハンセン (1912年没)