伝記
ガイウス・センプロニウス・グラックスは、共和政ローマの政治家である。紀元前154年に生まれ、紀元前121年に没した。改革者として知られる「グラックス兄弟」の弟にあたる。
父は大グラックスで、執政官を2回務め、ケンソルにも就いた。母は大スキピオの娘コルネリアである。姉のセンプロニアは後にスキピオ・アエミリアヌスの妻となり、兄にティベリウスがいた。一家はノビレスに属する名門だった。生後間もなく父を亡くし、母に育てられた。母は寡婦となってから、エジプトのプトレマイオス8世からの求婚を断り、子の養育に身を捧げたと伝えられる。ガイウスは兄より9歳年下で、兄の改革とその死から強い影響を受けたとされる。紀元前133年、護民官だった兄ティベリウスが反対派に暗殺されると、グラックス派の人々はガイウスを頼ったと考えられる。ガイウスは兄の農地法を実施する土地割り当て三人委員に選ばれ、スキピオ・アエミリアヌスのヌマンティア戦争にも従軍したとされる。
紀元前126年に財務官に当選し、執政官オレステスのもとでサルディニアに派遣された。そこで数年を務め、翌年の交代の担当者を待っても来なかったため帰国したという。その後、反対派の議員たちから、無断で任地を離れたことなどを理由に訴えられたが、ガイウスは、すでに12年従軍して必要な年数より2年多く務めたことや、属州に送られた金を民のために使い私腹を肥やさなかったことを公に述べて支持を得、訴えを退けた。紀元前123年、護民官に選ばれた。兄の弟ということで、選挙戦にはイタリア中から人々が集まって支持を訴えたという。ガイウスは兄と同じ轍を踏まぬよう、騎士階級を味方につけて改革を進めようとした。
その内容は、兄が成立させながら形骸化していたセンプロニウス農地法の復活、穀物価格を統制する法案、市民の軍役年数に制限を加える法案などである。司法でも、元老院議員だけで構成されていた審問所の審判人を騎士階級にも広げようとした。さらにローマ市民権をラテン同盟都市にも広げる構想を抱いていたため、元老院の強い反発を受けた。民衆への施策は、風刺詩人ユウェナリスが「パンとサーカス」という言葉を作るきっかけになったともいわれる。紀元前122年にも護民官に選ばれ、同僚にはマルクス・リウィウス・ドルススやマルクス・フルウィウス・フラックスがいた。ところがドルススはガイウスの法案を阻み、さらに魅力的な法案を示して支持層を奪っていった。その結果、元老院とノビレスに対する平民の反感は薄れていった。ガイウスはコロニア・ユノニアの建設のためアフリカに70日間滞在しており、この不在の間にドルススの攻勢に対応できなかったことも、支持を失う一因となった。ガイウスは護民官の再選に失敗した。
保守的な執政官ルキウス・オピミウスに法案を潰されたガイウスは、業を煮やして過激な行動に出た。元老院はこれを口実に、ガイウスとその支持者に元老院最終勧告を出した。ガイウスは奴隷の機転で一度は逃げ延びたが、敵に捕まりそうになり、別の奴隷に自分を殺すよう命じて死んだ。その奴隷も自ら命を絶ち、支持者3,000人が殺された。切り取られたガイウスの首はオピミウスの手の者に持ち去られ、懸賞金と引き換えられた。頭の重さと同じ量の金と交換する条件だったため、頭には鉛が詰められていたという。ガイウスの暗殺には、元老院だけでなく平民も加わったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- クレオパトラ・テア (紀元前121年没)
- マルクス・フルウィウス・フラックス (紀元前125年の執政官) (紀元前121年没)
同じ地域に関係する人物
- ソテル (ローマ教皇) (174年没)
- アンドレアス・フォン・エスターライヒ (1600年没)
- イポリット・フランドラン (1864年没)
- グレゴリウス1世 (ローマ教皇) (604年没)
- ロベルト・ベラルミーノ (1621年没)