HISTORICAL PERSON · 1203年没

オン・カン

モンゴル高原のケレイト部を率い、幾度もの権力争いを経てテムジン(後のチンギス・カン)と同盟を結んだが、後に対立して敗れ滅ぼされた。

生涯
1203年没
死亡地
—
出生地
モンゴル国(ドンドゴビ県 / モンゴル国)
出典
世界地図
モンゴル国(ドンドゴビ県)

伝記

オン・カンは、モンゴル高原中央部の遊牧民ケレイト部の最後のカンである。本名はトオリルといい、「オン」の称号は、中国語の「王」に由来する。ケレイトではネストリウス派のキリスト教が信じられ、オン・カンもダビデという洗礼名をもっていたと言われる。父はクルチャクス・ブイルク・カン、母はイルマ・カトゥンである。生年はわからない。7歳でメルキト族の捕虜となり、黒斑の子ヤギの皮衣を着せられ、黍を臼でつく仕事をさせられたが、まもなく父に救い出された。13歳のとき、祖父のマルクズ・ブイルク・カンがタタル族に敗れ、母とともに捕らえられたが、自力で脱出した。

父の死後、中央にいた弟のタイ・テムル・タイシとブカ・テムルが国政を導いたが、辺境にいたトオリルは戻ると、弟のエルケ・カラと協力して二人を殺し、カンの位に就いた。叔父のグル・カンはナイマンへ逃げ、ナイマンの援助でトオリルの軍を破って政権を握った。トオリルはわずか100人ほどの供を連れて、モンゴルのキヤト氏のもとへ逃れ、有力者イェスゲイ・バアトルにかくまわれて、義兄弟(アンダ)の誓いを結んだ。叔父を西夏に追い、ふたたびカンとなった。のちに弟エルケ・カラと不和になり、殺そうとしたがナイマンへ逃げられ、ナイマンの支援を受けた弟に敗れた。オン・カンは西遼、ウイグル、タングートを転々とした末、イェスゲイの子テムジン(のちのチンギス・カン)のもとへ逃れた。トラ河畔の宴で、イェスゲイとの旧交から義父子の関係を結んだ。テムジンの妻ボルテがメルキトに連れ去られたときには、オン・カンがメルキトに圧力をかけて解放させた。

1194年、タタル族の首長が金朝に背くと、金軍がウルジャ河の戦いでタタル部を破った。この戦いに協力した功で、トオリルは金の将軍から王の称号を与えられ、以後オン・カンと呼ばれた。1197年にはテムジンとともにメルキトに勝ち、戦利品を受け取って、失っていた勢力を回復した。1198年にはメルキトを破ったが、戦利品をテムジンに分けなかった。1199年、二人は、ナイマンのブイルク・カンを攻めたが、夜の反撃で離ればなれになった。ジャムカはテムジンをねたんで、オン・カンの疑いをあおり、テムジンを置き去りにして逃げるよう勧めた。オン・カンがひそかに陣を引き払ったため、テムジンは退却した。同年、ナイマンのサブラクの軍がオン・カンの弟たちを襲い、ケレイトの領土を略奪した。オン・カンは息子のイルカ・セングンを送ったが勝てず、ふたたびテムジンを頼った。テムジンは先の恨みを忘れて助け、取り戻した戦利品をすべてオン・カンに返した。

1200年から1201年に、オン・カンとテムジンは、タイチウトとタタル部の連合軍を破り、オン・カンの勢力はモンゴル高原の中部から東部に広がった。そののち、テムジンの息子ジョチとオン・カンの娘の縁談、孫とテムジンの娘の縁談が計画されたが、どちらも破談になり、関係は悪化した。1203年、イルカ・セングンとテムジンの不和をきっかけに、ケレイトへ逃げ込んでいたジャムカの勧めで、突然テムジンの本営を襲った。テムジンは一時、高原の北へ追いやられたが、勢力を取り戻して逆襲し、ケレイトの本営を破った。オン・カンはハンガイ山脈を越えて、同盟するナイマンのタヤン・カンを頼ろうとしたが、国境のナイマンの守備隊に殺された。タヤン・カンは首を届けられて怒り、頭蓋骨を銀の器に収めたという。息子のイルカ・セングンも、のち捕らえられ、孫とともに処刑された。こうして、モンゴル帝国以前の高原最大の勢力ケレイトは、モンゴルに征服された。

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