伝記
ガイウス・ラエリウス・サピエンスは、紀元前2世紀中頃の共和政ローマの政務官である。紀元前188年に生まれ、紀元前128年から125年ごろに没したとされ、紀元前140年に執政官を務めた。スキピオ・アエミリアヌスの親友として知られ、キケロの対話篇『ラエリウス・友情について』の主人公でもある。「サピエンス」は賢者を意味するが、家族名ではなく愛称である。ティベリウス・センプロニウス・グラックスの改革に反対したため、元老院の保守派からそう呼ばれるようになったという。
家は平民のラエリウス氏族で、父は紀元前190年の執政官ガイウス・ラエリウスである。父はスキピオ・アフリカヌスの親友で、第二次ポエニ戦争ではスキピオとともに各地で戦った。先祖に有力者のいない新参者でありながら、実力で執政官に達した人物であった。この縁から、サピエンスは数歳年下のスキピオ・アエミリアヌスと幼いころから知り合いだったと思われ、遅くとも紀元前160年代には友人になっていた。アエミリアヌスが亡くなるまで、二人は常に友であり同志であった。キケロは彼の口を借りて、同じ家で同じ食卓を囲み、旅も田舎の暮らしも共にし、余暇にも常に学び研究していたと、この友情を語らせている。周りにはルキウス・フリウス・ピルス、スプリウス・ムンミウス、プブリウス・ルピリウスら若者が集い、ギリシア文化への関心で結ばれた「スキピオ・サークル」を形づくった。
サピエンスは若いころから法律を学び、哲学にも関心を寄せ、ストア派のディオゲネスの話を聞いた。紀元前155年にアテナイの三人の哲学者、カルネアデス、クリトラオス、ディオゲネスがローマを訪れた際にも、アエミリアヌスとともに講義を聴いた。のちにストア派のパナイティオスがスキピオ家に住んでサークルの一員となり、サピエンスは娘婿のガイウス・ファンニウスにも講義に出席させた。ただしキケロは、彼がストア派に傾いたとは考えていない。喜劇作家テレンティウスや詩人ガイウス・ルキリウスなど、才能がありながら世に出にくかった作家も、友人たちと後援した。テレンティウスの喜劇にサピエンスとスキピオの書いた箇所が混じっているという噂が立ったが、真偽は分からない。
軍人としては、紀元前147年にアエミリアヌスが執政官になると、第三次ポエニ戦争で副司令官を務めた。ヌミディア王グルッサの協力を得てネフェリスを攻略し、これによってカルタゴは外からの援助を失い、ローマに抵抗する唯一の都市となった。紀元前146年春の総攻撃では一軍を率いて港に突入し、6日間の戦闘ののちにカルタゴは陥落した。この功績もあって、翌年に法務官に選ばれた。神官を民会で選ぶ法案には保守的な立場から反対して「司祭について」の演説を行い、これは弁論家としての最高の演説と評された。紀元前144年にはヒスパニア・キテリオルに赴き、ヴィリアトゥスが反乱を率いる地で戦い、キケロは完全な勝利と称えたが、功績は誇張されていると考えられている。
紀元前142年末の執政官選挙では友人クィントゥス・ポンペイウスの裏切りで敗れたものの、翌年に当選し、紀元前140年に同僚のクィントゥス・セルウィリウス・カエピオとともに執政官を務めた。サークルでは小土地保有者を救う法案が検討されたが、上流層の強い抵抗に遭い、サピエンスは取り組みを中止した。のちに護民官グラックスが土地改革に乗り出した際は、これに反対した。
同じ年に亡くなった人物
- デメトリオス2世ニカトル (紀元前120年代没)
- アルタバノス1世 (紀元前120年代没)
同じ地域に関係する人物
- ダリア・ニコロディ (2020年没)
- フランコ・チッティ (2016年没)
- アントニオ・リナルディ (1794年没)
- アントニエッタ・ステッラ (2022年没)
- アナクレトゥス2世 (対立教皇) (1138年没)