伝記
アルタバノス1世は、アルサケス朝パルティア王国の王である。プリアパティオスの子として生まれ、在位は紀元前128年または127年頃から紀元前124年または123年頃とされる。古い研究では誤ってアルタバノス2世と呼ばれていた。ペルシア語形ではアルダワーンといい、名は古代ペルシア語で「アルタの栄光」を意味する語に由来するとされる。その治世は短く、東方での戦いのさなかに突然終わった。
即位の事情には異説がある。従来はサカ族との戦いで戦死した甥のフラーテス2世の後を継いだと考えられてきた。一方、近年の貨幣や碑文の証拠からは、短期間在位した兄弟のバガシスの後を紀元前126年に継いだとも考えられている。受け継いだ王国は危機にあった。バガシスはバビロンとティグリス河畔のセレウキアを取り戻してヒュスパオシネスを追い出していたものの、アラブ人や東方の遊牧民の侵入が国の安定を損なっていたという。父プリアパティオスは紀元前176年に没していたため、即位した時にはかなりの高齢だったはずだとされる。紀元前2世紀の初め頃からアルサケス家は、古代イランのアケメネス朝の遺産を受け継ぐ王家だと自らを位置づけるようになり、初代アルサケス1世がアケメネス朝のアルタクセルクセス2世の子孫だという作り話まで唱えた。兄弟のミトラダテス1世は、アケメネス朝の称号であった「諸王の王」を初めて採用した王である。
アルタバノス1世は「諸王の王」を用いず、「大王」の称号を使った。貨幣には、初代の名で歴代の王の尊称となったアルサケスの名を刻み、ギリシア人に友好的であることを示す「ギリシア人の友」の称号も用いた。それまでの王が貨幣にヘレニズム風の衣装で描かれたのに対し、彼はパルティア風のズボン姿で描かれ、長い髭を蓄え、これは伝統的なイランや近東の習慣を表すとされ、ヘレニズム風の王冠も着けている。これはイラン的な伝統の復興を示すものとされる。
治世はパルティアにとって衰退の時期であった。東方では遊牧民のサカ族やトカラ族(甘粛から逃れてバクトリアに入り、イラン東部にも侵入した月氏と同一視されることが多い)が侵入し、貢物を払わされたともいわれる。サカ族は戦いに勝って国土を荒らして引き上げたとも、貢物を受けて引き返したともいわれる。すでに国土の大部分がサカ族に占領されていたため、アルタバノス1世は別の遊牧民であるトカラ族に戦いを仕掛けたとされる。南ではカラケネの王ヒュスパオシネスが独立を宣言し、一時バビロンを奪って、紀元前125年から124年には両河地方の一部を支配した。アルタバノス1世は遊牧民をより大きな脅威とみなして東にとどまったという。一方で南へ遠征し、エリュマイスやカラケネを服属させ、エリュマイスを併合して、その勝利を記念する貨幣をセレウキアやスーサで発行したという伝えもある。その後はメディアへ向かい、遊牧民の攻撃を退けたとされる。
最期はトカラ族との戦いであった。腕に受けた傷がもとで、紀元前124年か123年頃に死んだと伝えられる。死去の時期については、スーサで最後に彼の名が刻まれた貨幣が紀元前122年頃のものだとして、それに近い頃とする見方もあるが、バビロンの記録が乏しく詳しいことは分からない。跡を継いだのは息子のミトラダテス2世で、東方の遊牧民の圧力を収め、西にも勢力を広げてパルティアを大国に押し上げた。
同じ年に亡くなった人物
- ガイウス・ラエリウス・サピエンス (紀元前120年代没)
- デメトリオス2世ニカトル (紀元前120年代没)
同じ地域に関係する人物
- フラーテス2世 (紀元前128年没)
- スレナス (紀元前52年没)
- ティリダテス1世 (紀元前210年代没)
- デメトリオス3世エウカイロス (紀元前87)
- アブー・ムスリム (755年没)