伝記
エレオノーラ・ドゥーゼは、1858年10月3日に、当時オーストリア帝国領だったロンバルディア州ヴィジェーヴァノで生まれたイタリアの女優である。しばしば、たんにドゥーゼとのみ呼ばれ、同時代で最も偉大な女優と評価する人も多い。父アレッサンドロ・ヴィンチェンツォと母アンジェリカ・カペレットの間に生まれ、生まれた翌年に、ロンバルディアはオーストリアの支配から離れ、のちにイタリア王国の一部になった。父も祖父も、ヴェネツィア近郊のキオッジャ出身の役者であったことから、彼女は4歳にして一座に加わった。貧困のため、はじめのうちは休みなく、一座とともに都市から都市へ移り歩いた。サラ・ベルナールの当たり役の、イタリア語版を演じて有名になっていった。
最初にヨーロッパで成功を収めてから、南アメリカやロシア、アメリカをツアーして回ったが、名が知られていない土地を訪れても、去るころには、その天分が広く認められるようになっていた。1879年、ナポリでジャーナリストのマルティーノ・カフィエロに出会い、恋愛関係になった。しかし1年もしないうちに、彼は妊娠中の彼女のもとを去った。赤子は生後まもなく死に、その後まもなく、カフィエロも死んだ。その後、チェーザレ・ロッシの劇団に加わり、そこで俳優のテバルド・ケッキと出会い、1881年に結婚した。1882年までに、娘を一人もうけたが、ドゥーゼが別の俳優フラヴィオ・アンドーと関係を持ったため、夫婦は別れた。役者として脂の乗り切っていた彼女の人気は、1885年には高まっていた。南アメリカをツアーし、帰国した翌年に、自身の劇団を立ち上げ、支配人と演出家の責任も負うことになった。
1894年、ヴェネツィアで、5歳年下のガブリエーレ・ダンヌンツィオに会い、共に仕事に取り組むうちに、ロマンスが芽生えた。ダンヌンツィオは、彼女のために4本の戯曲を書いた。しかし、ある戯曲の初演の主役を、ドゥーゼではなくサラ・ベルナールに与えたため、猛烈な大喧嘩をし、ドゥーゼは関係に終止符を打った。ベルナールが外向的で、世間の注目を好んだのに対し、ドゥーゼは内向的で、私生活を明かさず、めったにインタビューを受けなかった。舞台を離れると「私は存在しない」と、記者に語ったことがある。二人は長年にわたるライバルで、ロンドンで数日と置かずに同じ戯曲を上演したことがあった。両方を観劇した一人バーナード・ショーは、ドゥーゼの方を高く買った。
1896年にアメリカでのツアーを大成功のうちに収め、時の大統領クリーブランド夫妻は全公演に足を運んだ。クリーブランド夫人は、一介の女優のために、ホワイトハウスで茶会を催すという、過去に例のない名誉を与え、ワシントンの社交界に衝撃を与えた。ドゥーゼは、感情を伝達するために既成の表現法を用いていたそれまでの俳優に対し、先駆者として新しい表現を生み出した。彼女が「自己の滅却」と呼んでいた技法で、描き出す登場人物の内面に心を通わせ、表現を自ずから湧き起こらせるものである。若い俳優や女優を援助したことでも、広く尊敬された。モダン・ダンスの先駆者マーサ・グレアムや、詩人エイミー・ローウェルらが、影響を受けたと自認している。肺の病など、健康を損なうことが多く、1909年に一度舞台を去ったが、1921年に舞台に復帰し、ヨーロッパとアメリカで契約を結んだ。1923年7月30日には、女性としては初めて『タイム』誌の表紙を飾った。1924年4月21日、アメリカのツアー中に、ペンシルベニア州ピッツバーグのホテルで、65歳で死去した。
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