伝記
マルクス・ポルキウス・カトは、紀元前2世紀後期の共和政ローマの政治家である。紀元前118年に執政官(コンスル)を務め、その年のうちに没した。生年は分からない。
出身はプレブス(平民)のポルキウス氏族で、この氏族はラティウムの都市トゥスクルムの出と考えられている。プルタルコスは氏族名をラテン語で豚を意味する語と結びつけており、先祖は養豚に従事していたと考えられる。ポルキウス氏族から高位の官職者が出るようになったのは紀元前3世紀からで、カト家で最初に執政官となったのは、紀元前195年の大カトであった。本項のカトはその孫にあたる。大カトは二度結婚しており、パトリキ(貴族)のリキニウス氏族出身の妻との間に生まれたのが、父のマルクス・ポルキウス・カト・リキニウスである。この父は法務官に選ばれたが、就任前に死去した。母はルキウス・アエミリウス・パウッルス・マケドニクスの娘で、スキピオ・アエミリアヌスの妹にあたる。弟のガイウス・ポルキウス・カトは、紀元前114年に執政官を務めた。弟ガイウスは紀元前157年前後の生まれとされる。
カトの若いころの経歴は分からない。ウィッリウス法は法務官就任から執政官就任までに最低3年を置くと定めているため、遅くとも紀元前121年には法務官を務めていたはずである。紀元前118年に執政官となり、同僚は同じくプレブスのクィントゥス・マルキウス・レクスであった。くじ引きの結果、カトはかつてのカルタゴの地にあたるアフリカ属州を担当することになった。隣国ヌミディアは、スキピオ・アフリカヌスとともに戦ったマシニッサの子ミキプサが治めていたが、ミキプサはこの年に死去し、遺言によって国は三分され、長男アドヘルバル、次男ヒエンプサル、養子のユグルタが統治することになった。カトはこの分割を公平に行わせるために派遣されたようだが、分割が成立する前に、現地で急死した。
アウルス・ゲッリウスによれば、カトは「十分に強力な弁論家」で、祖父の大カトの力強さを手本にしていた。その演説の原稿はゲッリウスの時代まで残り、よく読まれていたが、現在まで伝わるものはない。
同名の息子がおり、法務官としてガリア・ナルボネンシスの総督を務めたが、その後まもなく死去し、執政官にはなれなかった。なお、大カトの別の系統からは、のちに内乱期にウティカで自害した小カト(ウティカのカト)が出ている。
同じ年に亡くなった人物
- ミキプサ (紀元前118年没)
同じ地域に関係する人物
- Titus Flavius Sabinus (83年没)
- ルキウス・アエリウス・スティロ・プラエコニヌス (紀元前73)
- フランチェスカ・ベルティーニ (1985年没)
- グリエルモ・マルコーニ (1937年没)
- プブリウス・クロディウス・プルケル (紀元前52年没)