HISTORICAL PERSON · 紀元前52年没

プブリウス・クロディウス・プルケル

前58年に護民官を務めた民衆派の政治家。パトリキの出身ながらプレブスに移り、キケロを追放する決議を導き、民衆への無料食料配給法を通した。ミロの一団と衝突し、紀元前52年に殺害された。

生涯
紀元前52年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / Bovillae)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

プブリウス・クロディウス・プルケルは、共和政ローマ末期の政治家である。紀元前92年に生まれ、紀元前52年1月18日に没した。紀元前58年に護民官を務め、民衆への食料配給などを行った。長く、政敵キケロ側からの評価が先行して、三頭政治の奇っ怪な操り人形としてしか描かれてこなかったが、近年ではローマ市に住む民衆の代表としての動きが再評価されている。

実父は紀元前79年の執政官アッピウス・クラウディウス・プルケル、母は有力プレブスのカエキリウス・メテッルス家出身のバレアリカである。父は紀元前76年、クロディウスがまだ若いうちに世を去り、キケロは彼の放蕩ぶりを揶揄している。姉の一人クラウディアは紀元前60年の執政官メテッルス・ケレルの妻で、妹の一人はルクッルスの妻であった。第三次ミトリダテス戦争では、親族のルクッルスのもとで従軍したが、そこで兵の反乱をあおったともされる。のちに別の姻戚であるキリキア総督マルキウス・レクスから艦隊の指揮を任されたが、海賊に捕らえられた。海賊が身代金を求めたキプロスのプトレマイオスが少額しか送らなかったため、海賊はあきれて彼を解放した。屈辱を受けた彼は、この王への敵意を抱き続けたという。その後シリアに向かい、そこで起きた反乱で命を落としかけ、その扇動を疑われもした。紀元前66年ごろローマへ戻り、翌年にフルウィアと結婚した。紀元前65年にはカティリナを属州での不当取得で訴えたが、キケロによれば、その際にカティリナから金を受け取ったという。紀元前64年にはムレナとともにガリア・ナルボネンシスへ赴いた。カティリナの国家転覆の陰謀の際にはキケロの護衛役を務めたとされるが、のちにキケロは彼を陰謀の一味だとも非難した。

紀元前62年、男子禁制のボナ・デアの祭りが最高神祇官カエサルの家で行われたとき、クロディウスは、カエサルの妻ポンペイアと通じようとして女装して侵入したが、すぐに見つかったとされる。神への冒瀆として告発され、裁判で彼のアリバイを偽りだと証言したキケロに、以後も敵意を抱き続けた。当のカエサルは、知らぬ存ぜぬを通しつつ、カエサルの妻たる者はいかなる嫌疑も受けてはならないとして、妻と離婚した。この事件は祭りの後も数か月くすぶり、ルクッルスはこれを機にクロディウスの政治生命を断とうと、近親相姦という死刑に値する罪で彼を告発した。弁護にはクリオが当たったとされる。

翌年にクァエストルとなったのち、紀元前59年には護民官に立候補した。パトリキ系のクラウディウス氏族の出でありながらプレブスに移り、フォンテイウス氏族の養子になったが、キケロによれば、義父は彼の息子といえる年齢だったという。背後には、閥族派に対抗しようとしたカエサル、クラッスス、ポンペイウスの第一回三頭政治の後押しがあった。護民官としては、カティリナ事件でローマ市民を裁判なしに処刑したキケロを糾弾し、キケロ追放の決議を導いた。また、カトをキプロス併合のため派遣する法や、民衆に食料を無料で配る法を通すなど、民衆派として動き、閥族派との対立を深めていった。

閥族派はミロを護民官に立て、いっそう過激な政策で民衆を引きつけようとした。クロディウスとミロはそれぞれ自分の支持者を使ってしばしば抗争を起こし、紀元前52年、ミロの一団と衝突したクロディウスは殺害された。殺害の場はアッピア街道で、手を下したのはミロの護衛たちだったとされる。

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