伝記
アルタウァスデス1世(アルタウァズド、アルタヴァズドとも表記される)は、アルタクシアス朝のアルメニア王である。在位はおよそ紀元前160年から紀元前115年とされ、初代のアルタクシアス1世の子であり後継者であった。その治世についてはほとんど知られておらず、後世のアルメニアの著述家が記録した古い民間伝承の主人公として語られる人物でもある。
父アルタクシアスの死後、アルタウァスデスは紀元前160年ごろに王位を継いだ。5世紀かそれ以降の歴史家モヴセス・ホレナツィによれば、即位した彼は後継者に定めたティグラネスを除く兄弟たちを、王家の領地であるアイララト州からアギオヴィトとアルベラン方面へ追い払ったという。ローマの歴史家ユスティヌスによると、紀元前120年にパルティア王ミトリダテス2世がアルメニアに侵攻してアルタウァスデスを破った。アルタウァスデスはパルティアの宗主権を認めさせられ、人質として、のちのティグラネス大王となるティグラネスを差し出した。この人質は王の息子とも甥ともいわれる。ホレナツィは王が子のないまま死に、弟のティグラネスが跡を継いだと記す。2世紀のアッピアノスが、ティグラネス大王はアルタウァスデスの子ではなく、その弟で後継者だったティグラネス1世の子だと述べているのは、これに合致する。
また、キリル・トゥマノフは、中世のグルジア年代記に出てくる、イベリア(現在のジョージア東部にあたる地域)に介入したアルメニア王を、このアルタウァスデス1世に当たるとみている。年代記によれば、イベリアの諸侯は、ゾロアスター教を民に広めようとしていた王パルナジョムを倒すため、アルメニア王の助力を求めた。アルタウァスデスは、ファルナヴァズ家の王女を妻とする自分の息子アルタクシアスをイベリアの王位に就けることを承諾し、諸侯から人質を取った。諸侯がパルナジョムへの支持を捨てると、アルメニア軍とイベリア諸侯はタシルで合流した。パルナジョムはパルティアに援軍を求めて同地へ進んだが、戦いで敗れて殺された。こうしてアルタウァスデスの子がイベリアの王座に就き、イベリアのアルタクシアス朝が始まったとされる。
ホレナツィの『アルメニア史』は、アルメニアの叙事詩や民間伝承をもとにアルタウァスデスの生涯を描く。それによると彼は5人兄弟の長男で、母はアラン人の妻サテニクである。勇敢である一方で嫉妬深く、残酷で自己中心的、権力欲が強い人物とされ、成人すると父からアルメニア東部の統治を任された。ただしヴァハン・クルキジアンはこの記述を「全く伝説的」と評し、ハコプ・マナンディアンは民間伝承の中に初期の王たちに関する重要な歴史情報が残っているとみている。アルメン・ペトロシアンらは、ホレナツィの描くアルタウァスデス1世は、後代の王アルタウァスデス2世を下敷きにしたか、両者が混同されたものだと考えている。
伝承では、アルタウァスデスは貴族アルガム・ムラツェアンと母サテニクの密通を知り、父王にアルガムが謀反を企てていると信じ込ませた。王はアルガムの第二位の地位を息子に与え、のちにアルタウァスデスは宴席でアルガムと争った。その混乱の中で、王が送った別の息子マジャンが軍を率いてムラツェアン一族の多くを殺し、アルガムの宮殿を焼いた。のちにアルタウァスデスは、ナヒチェヴァンや、アラクス川以南の要塞と村々をも奪い、宮殿を自分の名で呼ばせた。アルガムの息子が起こした反乱も鎮圧し、一族の有力者を皆殺しにしたという。
同じ年に亡くなった人物
- 伊稚斜単于 (紀元前114年没)
- 張騫 (紀元前114年没)
- プブリウス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前133年の執政官) (紀元前 114年(推定))
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