伝記
張騫(ちょうけん)は、紀元前175年ごろに生まれ、紀元前114年に没した前漢の軍人・外交官である。漢中郡成固県の出身で、武帝の命を受けて西域へ赴き、漢にその情報をもたらした人物として知られる。武帝が即位した紀元前140年ごろに郎となり、宿衛として武帝に仕えていた。
当時の漢は、北の宿敵である匈奴を討つ準備を進めていた。その一環として考え出されたのが、大月氏に対匈奴の同盟を説く策である。月氏はかつて冒頓単于の時代に匈奴に敗れ、逃れた者は大月氏、現地に留まった者は小月氏と呼ばれるようになった。その後老上単于によって王を殺され、その頭蓋骨を盃にされたという。武帝は、大月氏がこのことを今も恨んでいるに違いないと考え、同盟して匈奴を挟み撃ちにしようとしたのである。この使節団の長に抜擢されたのが張騫で、100人余りを率いて西へ出発した。ただし漢には西域の情報が乏しく、大月氏の所在さえわからなかった。
張騫は匈奴の勢力圏を通る途中で捕らえられた。軍臣単于は使者の目的を知ると、漢の南の越へ使者を出したいと言えば漢は許すのか、と問い返し、張騫を十余年にわたって拘留した。この間、張騫は匈奴人の妻を与えられて子ももうけたが、使命を忘れず、隙を見て脱出し西へ向かった。数十日走って大宛(フェルガナ)に着くと、王は歓待して大月氏への道を教えた。張騫は康居を経て大月氏に至り、王に同盟を説いたが受け入れられなかった。大月氏が移り住んだ土地は物産が豊かで、大夏を服属させて栄えており、匈奴への復讐心はすでに過去のものとなっていたのである。一年余り滞在して説得を断念し、帰途についたが、再び匈奴に囚われた。それでも一年余りののち軍臣単于が死んで匈奴に内部対立が起こると、その隙に脱出し、13年の旅を経て漢に帰り着いた。出発時に100人余りいた随行員は、帰還時には従者1人だけになっていたという。
大夏にいたとき、張騫は蜀の特産である竹杖と布が売られているのを見た。商人に尋ねると身毒(インド)から買ったという答えで、蜀と身毒の間に交易路があると知った。身毒経由なら匈奴の地を通らずに西域へ行けると考えて武帝に進言し、道の開拓が試みられたが、身毒への道は見つからなかった。ただ、途中にあった滇国とは通じることができた。その後は大将軍衛青のもとで対匈奴戦に加わり、武功によって博望侯に封じられた。しかし紀元前121年の遠征では期日までに集結できず、軍律により死刑とされ、金銭を納めて死は免れたものの列侯の地位を奪われた。
次に張騫は、匈奴に王の父を殺されて離反していた烏孫との同盟を進言した。紀元前119年、武帝は前回の3倍にあたる300人の一行で張騫を烏孫へ送った。旅は匈奴の妨害もなく順調だったが、烏孫は政情が不安定で戦争どころではなく、漢のことも知らなかったため、同盟は断られた。紀元前115年に帰国したとき、返礼のため烏孫の使者数十名が同行しており、彼らは帰国後に漢について西域の人々へ伝えた。同盟は成らなかったが、張騫のもたらした知識は貴重であり、西域諸国も東に漢という大国があることを初めて知った。やがて諸国が漢に使者を送るようになり、新しい交易路が開かれた。これが後にシルクロードと呼ばれるものである。張騫は紀元前114年に死去した。その後、西域へ向かう漢の使者は皆、博望侯を名乗って現地の人々の信用を得たという。
同じ年に亡くなった人物
- プブリウス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前133年の執政官) (紀元前 114年(推定))
- 伊稚斜単于 (紀元前114年没)
- アルタヴァスデス1世 (紀元前114)