伝記
デキムス・ユニウス・ブルトゥス・カッライクスは、紀元前180年頃に生まれ、紀元前113年頃に没した共和政ローマの政治家・軍人である。プレブス(平民)の出身で元老院議員を務め、紀元前138年の執政官(コンスル)となった。父は紀元前178年の執政官マルクス・ユニウス・ブルトゥスで、貴族的な閥族派(オプティマテス)に属したとされる。
遅くとも紀元前141年までにはプラエトル(法務官)を経験したと考えられている。紀元前138年には、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオとともに執政官に選ばれた。キケロによれば、二人は元老院から殺人事件の調査を命じられている。在任中は護民官に対抗する立場をとった。護民官ガイウス・クリアティウスは、兵役を免除される十人を護民官が選ぶことを執政官が認めなかったため、二人の執政官を投獄したという。穀物価格が上昇する中で、外国から穀物を買い入れようとする護民官の提案にも二人は反対した。このときナシカの演説が、騒ぐ民衆を静めたと伝えられる。
執政官としての最も大きな仕事はヒスパニアでの軍事行動である。ルシタニア戦争(紀元前155年〜紀元前139年)を率いた首領ウィリアトゥスが前年に暗殺されると、その模倣をするゲリラ集団が各地を荒らしていた。アッピアノスによれば、ブルトゥスは紀元前138年にこれに対処するため、南部の属州ヒスパニア・ウルテリオルに派遣された。広い範囲を逃げ回る集団を追いきれないため、ブルトゥスは彼らの町を襲い、住居を破壊し、軍の略奪の対象としながら、道筋のものをことごとく滅ぼしたという。女たちも男とともに勇敢に戦った。山に逃れて赦しを請う者からは、財産を罰金として取り上げた。オリッシポ(現在のリスボン)を城砦として築き、ヴィサイウムにも防備を置いたとされる。
紀元前137年、軍はドウロ川を越えてガッラエキア(ガリシア)に入り、リマ川に達した。この川はレテ(忘却)という冥界の川と同じ名であったため、迷信を恐れる兵士は渡るのを拒んだが、ブルトゥスが自ら先に渡ったという。ストラボンの記述では、軍勢はさらにミーニョ川にまで達した。ブルトゥスは、輜重隊を襲われたとして、ブラガを中心とする部族ブラカリ人を攻撃した。捕らえられた女たちは、子どもとともに自ら命を絶った。降伏してから背いた町の一つタラブリガに対しては、住民に脱走兵・捕虜・人質・武器を引き渡して町を出るよう命じたが、従わなかった。そこで兵に包囲させて脅したうえ、馬・食料・公金を取り上げ、町は返した。遠征を終えると、ブルトゥスはローマへ戻った。シヴィダーデ・デ・テロソ遺跡には、ブルトゥスの時代にあたる完全な破壊と焼失の跡が見られる。
この遠征で、ローマはリマ川とミーニョ川に挟まれた地域を制圧した。本格的な属州になるのはアウグストゥスの治世のことだが、イベリア半島西部とガリシアはローマ軍のもとで治安が落ち着いた。元老院はこの功績により「カッライクス」(ガッラエキアを制圧した者)の称号を贈った。エウトロピウスは凱旋式を挙行したと記しており、研究者はそれを紀元前133年のことと考えている。紀元前129年には、執政官ガイウス・センプロニウス・トゥディタヌスのもとでイアピデス人との戦いで活躍した。また、正確な時期は不明だが、おそらく紀元前129年より前に鳥卜官(アウグル)に就任している。同名の息子は紀元前77年の執政官となり、孫のデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスはカエサルの部下として活躍したのち、カエサル暗殺に関与した。
同じ年に亡くなった人物
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同じ地域に関係する人物
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