伝記
章宗は、金の第6代皇帝である。女真名は麻達葛(マダガ)、漢名は璟(完顔璟)という。大定8年(1168年)8月31日に、世宗の嫡男で皇太子だった胡土瓦(允恭)の子として生まれた。胡土瓦は本来なら皇帝になるはずだったが、早く亡くなったため、孫の麻達葛が祖父から指名されて皇太孫となった。大定29年(1189年)1月20日に世宗が亡くなり、皇位を継いだ。
章宗の治世は「明昌の治」と呼ばれる。礼制、法典、格式をはじめ、科挙や官制を整え、常平倉を設けるなど、積極的な行政改革を行って、金は中国王朝としての姿を完成させた。文化もこの時代に最高潮に達したといわれる。章宗自身も、金の歴代皇帝のなかで傑出した風流人で、文人との交際を楽しみ、詩文や書画に巧みだった。北宋の徽宗の書「痩金体」を模した書を多く残している。党懐英や王庭筠らの優れた文人を重く用い、宋金戦争のときに散り散りになった書画や書籍の収集にも努めた。ただし、こうした政策で華美な風潮が国内に広がり、財政を苦しめたともいわれる。北京の梳粧台は、章宗が元妃李氏のためにつくった化粧の場所と伝わる。皇帝は女真語と女真の風習の使用を重んじる祖父の政策をある程度受け継ぎ、漢人の服装を禁じ、臣下に女真風の叩頭の礼を行わせた。猛安・謀克の貴族に進士の科挙を受けさせるときは、弓の試験を課した。いっぽう、女真人が漢人の葬礼に従うことは認め、1194年には、宮廷で唐や宋の儀礼が行われたことが知られる。海陵王の事業を引き継いで、各州県に孔子廟を設けた。北京の太液池を、魚釣りのために築かせたともいう。狩猟を軍事訓練とはみなさず、遊びとして楽しんだ。晩年には、元妃の李師児を溺愛し、その一族を官職に就けて、政務をおろそかにしたため、金は衰え始めたといわれる。
父親ゆずりの温厚な人柄で知られる一方、伯父の鎬王実魯剌(永中)とは仲が悪かったため、明昌5年(1194年)に、謀反を起こしたという口実で、鎬王とその子の兄弟(章宗の従兄)を捕らえ、投獄した。親しく、年齢も近い叔父の衛王果繩の諫めにも耳を貸さず、鎬王一家を処刑して、さらしものにしたという。明昌7年(1196年)には、金軍、モンゴル部、ケレイト部の連合軍がタタル部を撃ったウルジャ河の戦いがあり、これは、のちのモンゴルの勃興に至る大きな転換点となり、金の将来にとって決定的な出来事であった。ただし、章宗の時代の外敵の侵攻は、すべて撃退されている。1204年ごろから、南宋は金の集落を襲うなどして挑発し、1206年6月14日に、宋が戦争を宣言した。宋軍は進めず、兵の士気も落ちて、逃亡する者が多かった。1206年の秋までに、金は多くの町と軍事基地を奪った。1208年11月2日、和議が結ばれ、宋は、領土を譲り、賠償金を払い、主戦派の韓侂冑を処刑した。毎年、銀5万両と絹5万匹を贈り、韓侂冑と蘇師旦の首を金に送った。
1208年12月29日、章宗は亡くなった。享年41。6人の皇子が早世しており、世継ぎがなかったため、仲のよかった叔父の果繩(衛紹王)が皇位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- サンチャ・デ・カスティーリャ (アラゴン王妃) (1208年没)
- イレーネー・アンゲリナ (1208年没)
- マリア・コムネナ (1208年没)
- ピエール・ド・カステルノー (1208年)
- Nicholas of Verdun (1208年(推定))
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