伝記
フリードリヒ・エーベルトは、1871年2月4日にハイデルベルクで生まれ、1925年2月28日に没したドイツの政治家で、ドイツ社会民主党(SPD)の党首、ドイツ国(ヴァイマル共和政)の初代大統領である。仕立職人カール・エーベルトと妻カタリーナの、9人兄弟の7番目の息子として生まれた。大学に進学したかったが、家の資力がなく、1885年から1888年まで馬具職人の徒弟となった。1889年に職人となり、ドイツの慣習に従って各地を渡り歩いた。マンハイムでは伯父の紹介で社会民主党を知り、1889年に入党した。政治活動のため警察の「ブラックリスト」に載せられ、各地で住まいを変えることを強いられた。1891年にブレーメンに落ち着き、職人や臨時労働者として暮らした。
1893年にSPD系の地元紙「ブレーメン市民新聞」の編集員となり、1894年5月にルイーゼ・ルンプと結婚した。彼女は生涯エーベルトを支えた。飲食店経営を引き継ぎ、その店はブレーメンの労働組合員の溜まり場となった。1900年に労働組合の書記として収入を得るようになり、ブレーメンの市議会議員にも選ばれた。1904年にブレーメンで開かれた党大会で議長を務め、全国的な知名度を得た。1905年にSPDの事務局長となり、ベルリンに移った。1912年の選挙でエルバーフェルト=バルメンから帝国議会議員に初当選し、この選挙でSPDは議会第一党になった。1913年にアウグスト・ベーベルが死ぬと、9月20日の党大会で、フーゴー・ハーゼと並んで党首に選ばれ、穏健修正主義のリーダーとなった。
1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、エーベルトは戦争を必要な愛国的防衛の手段だとして受け入れ、戦時予算案に、ほぼ全員一致で賛成させた(城内平和)。この大戦で、3人の息子のうち2人が戦死した。戦争に反対する左派は、1916年に離党あるいは除名され、翌年にドイツ独立社会民主党を結成し、ローザ・ルクセンブルクらは、スパルタクス団を結成した。1918年10月にエーベルトを含む新内閣がバーデン公マクシミリアンのもとで組閣された。キールの水兵の反乱からドイツ革命が勃発すると、宰相は11月9日に辞職し、エーベルトを後任の臨時宰相に指名した。同日、シャイデマンが共和国の発足を宣言した。エーベルトはもともと君主制の支持者であり、この地位を不承不承に引き受けた。臨時政府は完全に彼の主導下に入り、軍のグレーナーとも交渉して協力を取り付けた。
革命の高揚はおさまらず、エーベルトは義勇軍を使って急進的な動きを抑え込もうとした。1919年1月のスパルタクス団員の暴動も、軍隊と義勇軍で鎮圧した。同月の総選挙でSPDは第一党となり、ヴァイマルで国民会議が開かれて憲法が制定され、2月11日にエーベルトは初代大統領に選ばれた。1920年には右翼によるカップ一揆が起こり、労働者のゼネラル・ストライキが政府を守った。1923年9月にフランスがルールを占領し、ハイパーインフレーションが頂点に達すると、シュトレーゼマンを首班とする大連立内閣が発足した。のちにSPDが離脱したので、エーベルトはかつての党首として、自らの党を叱責した。右派の新聞が、1918年のストライキの委員長だったエーベルトが「背後から一刺しを加えた」と書き立て、裁判になり、地裁の判事は、その時点では国家反逆罪だったと述べた。心労を重ねたエーベルトは、盲腸炎を悪化させ、1925年2月28日に腹膜炎のため54歳で死去し、故郷のハイデルベルクに埋葬された。
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