HISTORICAL PERSON · 1925年没

ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)

英国の政治家・貴族。1899〜1905年にインド総督を務め、1919〜24年には外務大臣として戦後処理に携わり、カーゾン線の制定やローザンヌ会議の主催を行った。

生涯
1925年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(ケドルストン・ホール)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ジョージ・ナサニエル・カーゾンは、1859年1月11日に生まれ、1925年3月20日に没したイギリスの政治家、貴族である。のちにケドルストンの初代カーゾン侯爵となった。ダービーシャーで、ケドルストンの国教会教区牧師を務める第4代スカーズデール男爵アーサー・カーゾンの長男として生まれ、11人の子のうち第2子であった。母ブランシュは、カーゾンが16歳の時の1875年に世を去っている。カーゾン家は12世紀からケドルストンに住む地主・牧師の家系だった。父は領主たるもの領地に留まるべしという家訓を信条とし、世界を放浪することを快く思わなかった。少年期のカーゾンには、父以上に厳格なガヴァネスが影響を与えたとされ、その虐待を伴う育児のせいで攻撃的になり、強迫観念に取りつかれがちになったという。10代の時には乗馬中に脊椎を傷め、生涯その痛みに苦しんだ。

イートン校を経てオックスフォード大学のベリオール・カレッジに進み、オックスフォード・ユニオンなどで要職を務めた。1885年に首相ソールズベリー侯の私設秘書代理となり、翌1886年にランカシャー南西部選出の保守党の庶民院議員に当選して政界入りした。その後は五回にわたって世界を旅し、カナダ、アメリカ、日本、清、ロシア領中央アジア、ペルシア、朝鮮、アフガニスタンなどを訪れた。体験をもとに『中央アジアにおけるロシア』『ペルシアとペルシア問題』『極東の諸問題』などを著し、1895年に王立地理協会の金メダルを受けた。同年にはシカゴの富豪の娘と結婚している。

1895年から1898年まで外務政務次官を務め、首相が外相を兼ねていたため、実質的には外相代行の立場だった。日清戦争後に列強による中国分割が進むなか、ロシアの進出を憂慮し、旅順の件で首相に報告書を送って危機感を持たせた。また揚子江流域へのイギリス鉄道の建設を推進した。1898年にインド総督兼副王に任じられ、アイルランド貴族のカーゾン男爵に叙された。1899年1月に着任し、7年にわたる統治を行った。北西辺境州を新設して強権的に統治する一方、遺跡保護法の制定を主導し、タージ・マハルなどの再建で成果を上げた。在任中の飢饉は多数の命を奪ったといわれ、対策が乏しかったと今日では非難されるが、実際には食料の配給や減税、灌漑事業を実施したともされる。1903年にエドワード7世のインド皇帝即位式を挙行し、ロシアを警戒してペルシア湾を訪れ、クウェートと保護条約を結んだ。1905年にはキッチナーと対立したが、本国政府の支持が得られず、同年11月に総督を辞した。

1908年からアイルランド貴族代表議員として貴族院議員となり、1911年にカーゾン伯爵に叙された。第一次世界大戦中の1915年5月に挙国一致内閣へ王璽尚書として入閣し、1916年12月成立のロイド・ジョージ内閣では貴族院院内総務・枢密院議長となって、5人の戦時内閣の一員に選ばれた。1919年に外務大臣となり、同年12月にはソ連とポーランドの国境線を提案した。この線はカーゾン線と呼ばれる。1921年に侯爵に叙され、1922年から1923年にかけてローザンヌ会議を主催してトルコの国境線を確定し、ルール占領をめぐっては独仏の緊張緩和に努めた。1923年には首相候補と目されたが、国王ジョージ5世がボールドウィンに組閣を命じたため、首相にはなれなかった。貴族院議員だったことが忌避されたといわれる。その後も閣僚を務めたが、1925年3月20日に死去した。男子がなく、スカーズデール子爵位などは甥に継承され、他の爵位は廃絶した。

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