HISTORICAL PERSON · 1210年代没

リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公)

キエフ大公位を幾度も獲得と喪失を繰り返し、一時はチェルニゴフ公スヴャトスラフとキエフ領域を分割統治するなど、ルーシの諸公の権力闘争を生き抜いた。

生涯
1210年代没
死亡地
ウクライナ(チェルニーヒウ州 / チェルニーヒウ)
出生地
—
出典
世界地図
ウクライナ(チェルニーヒウ州)

伝記

リューリク・ロスチスラヴィチは、キエフ大公ロスチスラフの子で、1210年代に没したキエフ大公である。没年には諸説ある。スモレンスク・ロスチスラフ家の出身で、キエフ近郊のオーヴルチを拠点に、スーズダリのユーリー家、ガーリチのロマン家、チェルニゴフのオレグ家らと政権をめぐって争った。1167年に父が没すると、従兄弟のムスチスラフがキエフ大公となり、リューリクはオーヴルチを領した。1169年にウラジーミル大公アンドレイがキエフを陥落させ、弟のグレプを大公に就けた。翌1170年、ノヴゴロドの人々は、リューリクを公に招いた。1171年に兄ロマンがキエフ大公に立てられたとき、リューリクはアンドレイからベルゴロドを受けた。しかしこの年以降は、反アンドレイの姿勢を明確にした。1173年にアンドレイが弟ミハイルをキエフ大公に立てると、リューリクは弟ダヴィドとキエフ近辺を守り、アンドレイが送ったフセヴォロドとヤロポルクを捕虜にして、キエフ大公位を奪った。1176年には、ポロヴェツ族にロストヴェツで敗れた。

1180年、チェルニゴフ公スヴャトスラフが、リューリクの弟ロマンが治めるスモレンスクに兵を出した。リューリクはガーリチ公ヤロスラフと同盟してキエフを制圧し、弟ダヴィドを援軍に送った。この年ロマンが没したが、ダヴィドはスモレンスクを守り、そのまま公位を継いだ。スヴャトスラフが、ノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリやコンチャークらのポロヴェツ族とともにキエフ地域を攻めたときは、リューリクがこれを破った。結局、キエフと大公位はスヴャトスラフのものとなり、キエフ領のその他の地はリューリクのものとなって、1180年から1194年のあいだ、二人の二頭支配が続いた。二人は、1184年のオレリ川の戦いとホロル川の戦いで、ポロヴェツ族に相次いで勝った。リューリクは、1181年ごろ、娘のプレドスラヴァをヴォルィーニ公ロマンと結婚させた。

1194年にスヴャトスラフが没し、リューリクはキエフ大公位を得た。1195年、リューリクは義理の息子ロマンにポロシエを与えたが、ウラジーミル大公フセヴォロドが介入して5都市を自分の領地にした。ロマンは反発して妻プレドスラヴァと離縁し、チェルニゴフ公ヤロスラフと同盟した。1201年、ロマンの軍がキエフへ進み、市民が自ら門を開いて、リューリクはキエフを捨てた。1203年1月2日、リューリクはオレグ家とポロヴェツ族の連合でキエフを占領し、連合軍は略奪を行った。同じ年、ロマンの組織した、ポロヴェツ族への遠征に加わったが、その帰り道のトレポリで、ロマンはリューリクと息子たちを捕らえた。リューリクは修道士にされ、妻のアンナ、娘のプレドスラヴァも修道院に入れられた。ウラジーミル大公フセヴォロドの仲裁で、リューリクの息子ロスチスラフがキエフ大公位に就けられた。1205年6月19日にロマンがポーランド遠征で没すると、リューリクは修道院を出て復位した。

1206年にチェルニゴフ公フセヴォロドがキエフに侵攻し、リューリクはオーヴルチへ追われたが、同年、息子や甥とともにキエフを奪い返した。1210年、ノヴゴロドをめぐってウラジーミル大公フセヴォロドとの関係が悪化し、リューリクはキエフをチェルニゴフ公フセヴォロドに譲った。キエフはフセヴォロドが、チェルニゴフはリューリクが治めたと年代記にある。最初の妻はポロヴェツ族長ベルクの娘、二人目の妻はトゥーロフ公ユーリーの娘アンナで、息子にロスチスラフとウラジーミルがいた。

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