伝記
リューリク・ロスチスラヴィチは、キエフ大公ロスチスラフの子で、1210年代に没したキエフ大公である。没年には諸説ある。スモレンスク・ロスチスラフ家の出身で、キエフ近郊のオーヴルチを拠点に、スーズダリのユーリー家、ガーリチのロマン家、チェルニゴフのオレグ家らと政権をめぐって争った。1167年に父が没すると、従兄弟のムスチスラフがキエフ大公となり、リューリクはオーヴルチを領した。1169年にウラジーミル大公アンドレイがキエフを陥落させ、弟のグレプを大公に就けた。翌1170年、ノヴゴロドの人々は、リューリクを公に招いた。1171年に兄ロマンがキエフ大公に立てられたとき、リューリクはアンドレイからベルゴロドを受けた。しかしこの年以降は、反アンドレイの姿勢を明確にした。1173年にアンドレイが弟ミハイルをキエフ大公に立てると、リューリクは弟ダヴィドとキエフ近辺を守り、アンドレイが送ったフセヴォロドとヤロポルクを捕虜にして、キエフ大公位を奪った。1176年には、ポロヴェツ族にロストヴェツで敗れた。
1180年、チェルニゴフ公スヴャトスラフが、リューリクの弟ロマンが治めるスモレンスクに兵を出した。リューリクはガーリチ公ヤロスラフと同盟してキエフを制圧し、弟ダヴィドを援軍に送った。この年ロマンが没したが、ダヴィドはスモレンスクを守り、そのまま公位を継いだ。スヴャトスラフが、ノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリやコンチャークらのポロヴェツ族とともにキエフ地域を攻めたときは、リューリクがこれを破った。結局、キエフと大公位はスヴャトスラフのものとなり、キエフ領のその他の地はリューリクのものとなって、1180年から1194年のあいだ、二人の二頭支配が続いた。二人は、1184年のオレリ川の戦いとホロル川の戦いで、ポロヴェツ族に相次いで勝った。リューリクは、1181年ごろ、娘のプレドスラヴァをヴォルィーニ公ロマンと結婚させた。
1194年にスヴャトスラフが没し、リューリクはキエフ大公位を得た。1195年、リューリクは義理の息子ロマンにポロシエを与えたが、ウラジーミル大公フセヴォロドが介入して5都市を自分の領地にした。ロマンは反発して妻プレドスラヴァと離縁し、チェルニゴフ公ヤロスラフと同盟した。1201年、ロマンの軍がキエフへ進み、市民が自ら門を開いて、リューリクはキエフを捨てた。1203年1月2日、リューリクはオレグ家とポロヴェツ族の連合でキエフを占領し、連合軍は略奪を行った。同じ年、ロマンの組織した、ポロヴェツ族への遠征に加わったが、その帰り道のトレポリで、ロマンはリューリクと息子たちを捕らえた。リューリクは修道士にされ、妻のアンナ、娘のプレドスラヴァも修道院に入れられた。ウラジーミル大公フセヴォロドの仲裁で、リューリクの息子ロスチスラフがキエフ大公位に就けられた。1205年6月19日にロマンがポーランド遠征で没すると、リューリクは修道院を出て復位した。
1206年にチェルニゴフ公フセヴォロドがキエフに侵攻し、リューリクはオーヴルチへ追われたが、同年、息子や甥とともにキエフを奪い返した。1210年、ノヴゴロドをめぐってウラジーミル大公フセヴォロドとの関係が悪化し、リューリクはキエフをチェルニゴフ公フセヴォロドに譲った。キエフはフセヴォロドが、チェルニゴフはリューリクが治めたと年代記にある。最初の妻はポロヴェツ族長ベルクの娘、二人目の妻はトゥーロフ公ユーリーの娘アンナで、息子にロスチスラフとウラジーミルがいた。
同じ年に亡くなった人物
- コンラート2世 (ラウジッツ辺境伯) (1210年)
- ペイレ・ヴィダル (1210年(推定))
- Philippa of Armenia (1210年(推定))
- クトゥブッディーン・アイバク (1210年没)
- ウォルター・マップ (1210年没)
同じ地域に関係する人物
- Mstislav of Chernigov (1036年没)
- スヴャトスラフ・フセヴォロドヴィチ (キエフ大公) (1194年没)
- Sergey Volkonsky (1865年没)
- スヴャトスラフ・オリゴヴィチ (チェルニゴフ公) (1164年没)
- イヴァン・ボフーン (1664年没)