伝記
クトゥブッディーン・アイバクは、1150年ごろに生まれ、1210年(11月4日とする記述がある)に没した、デリー・スルタン朝最初のスルタン(在位1206年6月27日〜1210年)である。もとは奴隷身分のマムルーク(奴隷軍人)で、ゴール朝のシハーブッディーン・ムハンマド(ムハンマド・ゴーリー)に仕え、のちに新しい王朝を開いた。後継者となった娘婿のイルトゥトゥミシュも解放奴隷だったため、この王朝は奴隷王朝と呼ばれる。
中央ユーラシアのテュルク系遊牧民キプチャクの出身で、アイバクの名は、テュルク語で「月」と「主」を合わせた意味をもつ。父母は不明である。幼いころ、家族から引き離されてニーシャープールの奴隷市場に連れて行かれ、イスラーム神学者アブー・ハニーファの子孫である法官ファフルッディーンに買われた。法官の家では愛情をもって扱われ、法官の息子たちとともに教育を受けて、弓術や馬術、クルアーンの読誦を学んだ。のちに商人を経て、ガズナのシハーブッディーンに売られた。スルタンが奴隷たちに贈り物を与えたとき、アイバクが自分の分を召使たちに分けたことに感心して、スルタンは彼を上の位に引き上げたという。のちに王の厩舎係となった。ホラズムのスルタン・シャーとの戦いのさなか、馬の飼料を探しているときにスルタン・シャーの斥候に捕らえられ、鉄の檻に入れられた。ゴール朝が勝利したのち、スルタンは檻の中の彼を見て、その惨めな姿に心を動かされ、解放されたアイバクを重く用いた。
アイバクは、1191年から1192年のタラーインの戦いに従軍した。最初の戦いでは、ゴール軍はチャーハマーナ朝のプリトヴィラージャ3世に敗れたが、1192年の第2次の戦いでは、アイバクは軍の配置を受けもち、中央に陣取ったスルタンのそばに控えて、ゴール軍が勝利した。シハーブッディーンは、チャーハマーナ朝の旧領をアイバクに任せ、アイバクはクフラーム(現在のパンジャーブ州グラーム)に置かれた。プリトヴィラージャの死後は、その子ゴーヴィンダラージャ4世を、ゴール朝に従う家臣とした。
1193年にシハーブッディーンがデリーを攻略し、兄ギヤースッディーン・ムハンマドのいるホラーサーンに活動の拠点を移すと、アイバクはデリーの支配を任され、北インドの征服をほぼ完了させた。ヒンドゥー教徒の町だったデリーをイスラームの都市として整えることにも力を注ぎ、デリーを征服した1193年から6年かけて、「イスラームの力」を意味するモスクを建てた。1200年には石造の巨大なミナレット(尖塔)を着工し、この塔はアイバクの尊称からクトゥブ・ミーナールと呼ばれる。1202年にはカーリンジャルを落として中央インドを征服し、ベンガルまで進んで占領して、仏教の拠点のヴィクラマシーラ僧院を破壊した。
1206年3月にシハーブッディーンが暗殺されてゴール朝が統一を失うと、アイバクは6月にみずからスルタンを称し、デリーに事実上独立して、奴隷王朝を開いた。アイバクは、混乱のなかでパンジャーブ地方を併合した。イルトゥトゥミシュに娘を嫁がせ、シンドの総督カバーチャに姉妹を嫁がせ、自分はケルマーンの総督ヤルドーズの娘を妻として、権力の基盤を固めた。1210年、ポロの競技中の落馬事故で急死した。馬が体の上に倒れ、鞍の前橋が胸を突き抜けたという。跡を継いだ子のアーラーム・シャーは、イルトゥトゥミシュとの後継争いに敗れて、翌年に敗死し、アイバク家は2代で終わった。
同じ年に亡くなった人物
- ペイレ・ヴィダル (1210年(推定))
- カイホスロー1世 (1210年没)
- ピエール・ド・ブロワ (1210年(推定))
- ウォルター・マップ (1210年没)
- ジョチ・カサル (1210年代没)
同じ地域に関係する人物
- アユーブ・ハーン (1974年没)
- ラーラー・ラージパト・ラーイ (1928年没)
- シェール・シング (1843年没)
- Noor Alam (2003年没)
- Taleb Amoli (1626年没)