伝記
ジョチ・カサルは、1164年ごろに生まれ、1213年ごろに没したともいわれる、チンギス・カンの次弟で、モンゴル帝国の皇族である。イェスゲイ・バアトルと、ホエルンの次男で、同母兄弟にカチウンとテムゲ・オッチギンがいる。兄のチンギスより2歳年少と伝わる。本名はジョチで、「勇猛な」を意味するカサルのあだ名は、怪力で威厳のある人物だったためといわれる。弓の名手で、「強弓引きのカサル」とも呼ばれた。後代の伝説では、幼いころから兄より背が高く強弓を引き、それを自慢していたが、老人に変装したチンギスにその驕りを挫かれたという。
幼いころ、一家はタイチウド部の族長に追われてボルジギン部から放り出され、食べ物が乏しいなか、異母兄のベクテルが母や弟たちから食べ物を盗んだ。カサルと兄テムジン(のちのチンギス・カン)は、狩りから戻るベクテルを殺した。カサルは幼いころから兄を助け、兄弟とともに帝国の創建に貢献した。チンギスは彼を深く信頼し、カサルに相談してから軍事行動を決めることもあった。1199年のナイマン出兵ではナイマン軍に大勝した。1203年にテムジンがカラカルジトの砂地で敗れたとき、カサルは行方不明となり、息子や従者とともに森に隠れた。テムジンは新たな支持者を集め、行方の分からないカサルからの偽の降伏の伝言でライバルのオン・カンをだまし、1203年の末にケレイト部を打ち破った。1204年のナイマン征服戦では、カサルは中軍を任され、その戦力を高く評価された。
1206年にモンゴル帝国が成立すると、カサルは4つの千人隊を与えられた。領地は、北寄りのモグーリスタンの内部で、アルグン川、フルン湖、ハイラル川の地域にあったとされる。カサル、カチウン、テムゲの兄弟は、内モンゴルの東の端で帝国の左翼を構成した。他の弟たちに比べて、カサル家の領民は圧倒的に少なく、チンギスとカサルの政治的な対立が影響したとする説がある。チンギスがコンゴタン氏族の巫者ココチュ・テプテングリらのクーデター計画にカサルが加わったと咎めて、国政の中枢から遠ざけたとも伝わる。母ホエルンは、テプテングリの告発に対してカサルを守ったとされ、のちにテプテングリは、カサルとテムゲに殺されたともいわれる。チンギスがタタル部族を討伐した際には、積年の恨みから皆殺しにせよと厳命したが、カサルの妻や、チンギスの皇后となった姉妹がタタルの出身だったため、カサルは妻の願いを聞き入れ、処刑が決まっていた千人の将兵のうち、500人しか殺さず、残りの500人をかくまった。これが発覚して、チンギスは激怒したという。
1213年に始まる第一次金朝遠征で、カサルは、アルチダイ、テムゲらとともに、左翼軍として山東方面に侵攻し、1214年に遼西の諸城を攻略した。没年ははっきりしない。『元史』は、チンギスが「ベルグテイの力とカサルの射があってこそ天下を取れた」と語ったと記す。カサルには、イェグ、トク、イェスンゲの3人の息子と、孫のカプチュがいた。イェスンゲは、最古のモンゴル語の碑文の一つ「イェスンゲ紀功碑」に、約530メートルを射たと記される人物で、1260年にクビライの即位を支持した。カサル家は、このイェスンゲの系統が最も栄え、子孫からホルチン部、ゴルロス部、ドルベト部、ジャライト部などが生まれた。
同じ年に亡くなった人物
- ファフルッディーン・アッ=ラーズィー (1210年)
- 陸游 (1210年没)
- ハルトマン・フォン・アウエ (1210年代没)
- リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公) (1210年代没)
- カイホスロー1世 (1210年没)
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