HISTORICAL PERSON · 1212年没

サンシュ1世 (ポルトガル王)

ポルトガル王国ブルゴーニュ王朝の第2代国王。父の代に広がった領土へポルトガル人やフランドル人の入植を進めて内政を確立し、「殖民王」と称された。

生涯
1212年没
死亡地
ポルトガル共和国(コインブラ県 / コインブラ)
出生地
ポルトガル共和国(コインブラ)
出典
世界地図
ポルトガル共和国(コインブラ県)

伝記

サンシュ1世は、ポルトガル王国ブルゴーニュ王朝の第二代国王で、一一八五年から一二一一年まで在位した。初代国王アフォンソ1世と、サヴォイア伯アメデーオ3世の娘である最初の王妃マファルダのあいだに、一一五四年十一月十一日に生まれた。ポルトガル語版の記事によれば五番目の子で、生まれた日が聖マルティヌスの日だったため、当初はマルティニョと名づけられた。王位に就くと見られていなかったが、幼いころに兄エンリケが亡くなり、名前をイベリア半島風のサンシュ・アフォンソに改めたという。日本語版の記事は、領土の拡張した父の時代を受けて、ポルトガル人やフランドル人の入植を積極的に奨励し、内政の基礎を固めたことから「殖民王」と称されたと伝える。

若いころから政務に関わり、一一七〇年八月十五日には、バダホスでの事故で足に重い傷を負った父の手で騎士に叙せられた。その後は父に代わる摂政の会議が置かれ、サンシュは妹のテレサとともに国政を担った。一一七四年ごろから父は政務を離れ、テレサが行政を、サンシュが軍事を分担したとされる。当時のポルトガルはレオン王国をはじめ敵が多く、教会も独立の承認を渋っていたため、伝統的にカスティーリャと対立するアラゴン王国と結び、一一七四年にサンシュはアラゴン女王ペトロニーラとバルセロナ伯の長女ドゥルセと結婚した。二人のあいだには十一人の子が生まれ、九人が成人したという。一一七八年にはセビーリャ近くまで遠征し、ムーア人と戦って勝利したと伝えられる。

一一八五年に父が亡くなると王位を継ぎ、コインブラの大聖堂で戴冠した。この都市を王国の中心に保ち、ガリシアをめぐる国境の戦いに終止符を打って、南のイスラーム勢力との戦いに専念した。一一八九年、第3回十字軍の艦隊が合流のためイベリア半島に寄港すると、その支援を得て南部アルガルヴェ地方のシルヴェスを包囲し、陥落させた。しかし翌年、ムワッヒド朝のアミール、ヤアクーブ・マンスールが北上し、キリスト教勢力はテージョ川流域まで押し返された。一一九一年にシルヴェスを奪還されてアルガルヴェを失い、パルメラやアルカセル・ド・サルなども占領された。サンシュはやむなくムワッヒド朝と講和した。

以後はテージョ川より北の土地への入植に力を注いだ。ポルトガル北部やフランドル、ブルゴーニュから移民を招き、ベイラやトラス・オス・モンテスに特許状を与えて、ゴウヴェイア、コヴィリャン、ヴィゼウ、ブラガンサなどの都市を整えた。一一九九年にはグアルダの町を築いた。財宝を蓄え、産業や商人階級の育成も促したとされる。

外交では、一一九一年に甥のレオン王アルフォンソ9世がカスティーリャ王アルフォンソ8世に反発すると、反カスティーリャ同盟に加わった。しかし一一九六年にアルフォンソ9世が教皇に破門され、翌年に討伐命令が出されると、アルフォンソ8世らに加わって、アルフォンソ9世にカスティーリャとの講和を強いた。子女の縁組は広い範囲に及び、フェルナンドはフランドル女伯ジャンヌと結婚してフランドル伯となり、ベレンガリアはデンマーク王ヴァルデマー2世の妃、マファルダはカスティーリャ王エンリケ1世の妃となった。娘のテレサはレオン王アルフォンソ9世に嫁いだが、近親婚を理由に結婚を無効とされた。宮廷ではフランスの影響のもとでトルバドゥールの文化が花開いた。サンシュは一二一一年に没し、コインブラのサンタ・クルース修道院に葬られ、王妃ドゥルセとの息子アフォンソ2世が跡を継いだ。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物