伝記
法然は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、日本の浄土宗の宗祖と仰がれる。房号が法然、諱は源空、幼名は勢至丸という。1133年4月7日、美作国久米の押領使漆間時国と、母秦氏君清刀自の子として生まれた。9歳のとき、土地の争いのために父が夜討ちをかけられて殺されたが、父の遺言により仇討ちを断念し、母方の叔父の僧観覚に引き取られた。才を認めた観覚は、比叡山での勉学を勧めた。1145年に比叡山に登って源光に師事し、1147年に皇円のもとで得度した。1150年には黒谷別所に移り、叡空を師として戒律を護る生活を送り、18歳で、源光と叡空から一字ずつをとった源空の諱と、法然房の房号を授かった。「智慧第一の法然房」と称され、1156年には清凉寺に七日間参籠し、集まる民衆を見て衆生の救済を深く考えた。そののち醍醐寺や奈良に遊学し、学僧たちと談義した。法然の出家は、父の死とは無関係だったとする別の伝えもある。
1175年、43歳のとき、善導の『観無量寿経疏』によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んだ。比叡山を下りて岡崎に草庵を設け、念仏を唱えて眠ると、夢に善導が現れて対面した。法然はのちに東山の吉水に草庵を建てて移り住み、この年が浄土宗の立教開宗の年とされる。証空、隆寛、親鸞らが入門した。1181年には東大寺の大勧進職に推されたが辞退し、俊乗房重源を推した。1186年、天台僧の顕真に招かれた大原で、法然は顕真、重源らと一昼夜にわたって問答した(大原問答)。これを聞いた重源は、法然に師事した。1190年には、再建中の東大寺大仏殿で浄土三部経を講じた。1198年、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請で、『選択本願念仏集』を著した。1204年には、後白河法皇の13回忌の法要を営んだ。
法然は、顕密の修行をすべて難行・雑行としてしりぞけ、阿弥陀仏の本願力を信じて「南無阿弥陀仏」と称える易行のみを正行とした。仏教を、念仏を行う浄土門と、現世で悟りを目指す聖道門に分け、末法の世に生まれた凡夫は、浄土門に帰して念仏に専念することでしか救われないと説いた。ただし、聖道門を否定することはなかった。法然の教えは、都だけでなく、地方の武士や庶民、九条兼実ら中央貴族にも広まった。
1204年、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起し、法然は『七箇条制誡』を書いて、門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。1205年の興福寺奏状も一因となって、1207年、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。直接のきっかけは、上皇の熊野詣の留守中に、院の女房たちが、法然の門下の遵西、住蓮が開いた鹿ヶ谷草庵の念仏法会に参加し、出家して尼僧となったことであった。女房たちが遵西、住蓮と密通したという噂が上皇を怒らせた。法然は還俗させられ、「藤井元彦」の名で土佐国に流される予定だったが、九条兼実の庇護により、讃岐国への流罪に変更された。親鸞は越後国に流された。讃岐の滞在は10か月と短かったが、75歳の高齢にもかかわらず、各地で布教し、善通寺にも参詣した。1207年12月に赦免され、勝尾寺に1210年3月まで滞在した。1211年に京に帰り、大谷禅房に入った。
1212年1月25日、大谷禅房で死去した。数え年で80歳であった。死の直前の1月23日には、弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記した。法然の死後15年目の1227年、天台宗の圧力で、隆寛、幸西、空阿が流罪にされ、僧兵に廟所を破壊される事件が起きた(嘉禄の法難)。弟子たちは遺骸を嵯峨の二尊院などに移し、翌1228年に荼毘に付した。
同じ年に亡くなった人物
- サンシュ1世 (ポルトガル王) (1212年没)
- マリー・ド・モンフェラート (1212年没)
- ベアトリッツ・デ・ディア (1212年)
- ヴァロワの聖フェリクス (1212年)
- Guilhem de Cabestany (1212年没)