伝記
フェリックス・エドムーンドヴィチ・ジェルジンスキーは、1877年9月11日、ロシア帝国領ベラルーシのミンスクで、ポーランド系の貴族の家に生まれた。家はポーランド・リトアニア共和国の騎士階級シュラフタに属した。父エドムンド・ルフィンはギムナジウムの物理教師で、母ヘレナはその父がサンクトペテルブルク大学で学んだ際の教官の娘だった。1882年、5歳のときに父は結核で亡くなった。幼いころはイエズス会の修道士になることを望む敬虔で無欲な少年で、ヴィリナ(現在のヴィリニュス)のギムナジウムに入ったが、労働者の窮状に憤りを覚え、マルクス主義を知ると熱心に傾倒したという。旧友にポーランド語で話したために放校になったとされ、ロマノフ朝への憎悪を深めたと伝えられる。
1895年に生涯を革命に捧げる決意を固め、爵位を継がずに実家を離れて、ロシア労働者同盟に加わった。1897年、20歳で労働運動を指導したとして逮捕され、シベリア流刑となった。1898年に流刑先から脱出してリトアニア社会民主党の創設に参加し、翌年12月には故郷ポーランドの社会民主党との合流を指導して、ポーランド王国・リトアニア社会民主党を結成した。1900年にドイツを訪れてローザ・ルクセンブルクと会い、各国の運動の連帯に奔走した。その後、婚約を予定していたスイス人の女性が結核を患い、一時政治から離れた。1904年6月に彼女が亡くなると、彼は姉に「貴族の道を捨てて選んだ道は無意味だった」と手紙を書くほど衝撃を受けたとされる。
1905年7月に運動へ復帰したが、まもなく逮捕されて再びシベリアへ流された。ロシア第一革命の十月宣言で自由の身となり、のちにロシア社会民主労働党員のソフィア・ムシュカトと結婚して長男を授かった。各地を逃れながら党の指導を続けたが、1911年ごろに拘束されて政治刑務所に収監され、数年にわたる強制労働と、顎に深い傷跡が残るほどの拷問を受けた。1917年の二月革命でようやく解放された。支持者はポーランドへの帰還と独立を期待したが、彼はロシアに留まり、党をルクセンブルクらに委ねて、レーニン率いるボリシェヴィキの中央委員に選ばれた。同じ中央委員のブハーリンは、メモに彼を「革命の剣」と記したという。同年10月10日の中央委員会で武装蜂起というレーニンの案に賛成票を投じ、十月革命ではスモーリヌイを警護する保安部隊を率いた。
十月革命後、反対派のストライキやデモが広がり、列強の干渉も始まった。レーニンは彼を「革命の使徒」として信頼し、反革命勢力への対処を命じた。1917年12月20日、ジェルジンスキーは「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会」(チェーカー)を創設した。権限は内戦のなかで強まり、令状なしの捜査や略式裁判による処刑まで認められ、多くの人々が弁明の場もなく射殺された。「赤色テロ」の名のもと、彼は徹底した粛清を命じたと伝えられる。内戦後はチェーカーが国家政治局(GPU)となり、初代長官を務めた。1921年に交通人民委員、1924年に人民経済最高会議議長となっている。一方で孤児の養育にも力を注いだと伝えられる。
1926年7月20日、中央委員会でトロツキーとカーメネフを批判する2時間の演説を終えた直後に心臓発作で急死した。暗殺説も噂されたが、政府は病死と発表した。スターリンは「信心深き労働者の騎士」と称え、早くから神格化を進めた。故郷に近いコイダノヴォはジェルジンスクと改名され、各地に彼の名を冠した都市や工場が生まれた。
同じ年に亡くなった人物
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- アルトン・パーカー (1926年没)
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- ベルタ・ヴェークマン (1926年没)
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