HISTORICAL PERSON · 1926年没

クロード・モネ

印象派を代表するフランスの画家。代表作『印象・日の出』は印象派の名の由来となり、戸外制作と筆触分割の手法を確立した。

生涯
1926年没
死亡地
フランス共和国(ウール県 / ジヴェルニー)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(ウール県)

伝記

クロード・モネは、1840年11月14日にパリで、父アドルフと母ルイーズの二男として生まれた、印象派を代表するフランスの画家である。出生時の名はオスカル=クロードであった。1845年ごろ一家はノルマンディー地方のセーヌ河口の街ル・アーヴルに移り、そこでは父の義兄が富裕な雑貨卸業を営んでいた。少年のころから絵に巧みで、描いた人物のカリカチュアを文具店の店先に置いてもらい、注文を受けて最初は10フラン、のちに20フランで引き受けた。1857年に母を亡くして学業を放棄したが、叔母がアトリエに入れてデッサンを続けさせた。1858年ごろ、風景画家ウジェーヌ・ブーダンと知り合い、戸外で陽光の下の海や空を描く彼に誘われて、油絵に取り組み始めた。

パリで学びたいと考えたが、父は強く反対した。しかしカリカチュアで稼いだ貯金2000フランを示すと父は驚いて許し、1859年4月にパリへ出た。アカデミックな勉強を拒んで自由なアカデミー・シュイスに入り、カミーユ・ピサロらと知り合った。1861年に徴兵されてアルジェリアで兵役に就いたが、1862年に病気のため帰国し、叔母が納付金を払って残りの期間は免除された。同年夏、ル・アーヴルでオランダの画家ヨンキントと知り合い、のちに彼を「私の真の師」と語っている。同年11月に入ったシャルル・グレールのアトリエでは、シスレー、バジール、ルノワールらと出会い、のちの印象派の中心メンバーが形づくられていった。1865年にはサロンに海景画2点で初めて入選し、批評家から好意的な評価を得た。作品はマネの『オランピア』の真向かいに並び、マネは憤慨したという。これを機にモネは「クロード・モネ」とフルネームで署名するようになった。

1869年と1870年のサロンには続けて落選し、カミーユ・ドンシューとの間に長男が生まれたが、父は援助を断った。1870年に普仏戦争が始まると兵役を避けてロンドンに渡り、画商デュラン=リュエルと知り合って重要な支援者を得た。帰国後はアルジャントゥイユにアトリエを構え、1874年に仲間たちとサロンから独立した展覧会を開き、『印象・日の出』などを出品した。これが第1回印象派展と呼ばれ、当時の評価は惨憺たるものであった。1878年にヴェトゥイユへ移ってパトロンのオシュデ家と同居し、1879年に妻カミーユを亡くして、アリス・オシュデとの関係が深まった。印象派グループは考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった。

1883年にジヴェルニーに移り、生涯ここで暮らした。1886年にニューヨークでデュラン=リュエルが印象派の展覧会を開いたころから経済的に安定し、1890年代には『積みわら』『ポプラ並木』『ルーアン大聖堂』の連作で大家としての名声を確立した。1892年にアリスを2人目の妻とした。自宅に花の庭と睡蓮の池のある水の庭を整え、1898年ごろから睡蓮の池を集中的に描き、1909年の個展に結実させた。最晩年は視力低下や家族・友人の死に直面したが、友人クレマンソーの励ましを受け、白内障の手術を乗り越えて、オランジュリー美術館に収められる『睡蓮』の大装飾画に没頭し、1926年12月5日に86歳で世を去った。物の固有色ではなく光によって目に映る印象を再現しようとした画業で、油彩画は2000点以上に及ぶ。

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