伝記
アルフォンソ8世は、カスティーリャ王(在位1158年から1214年)で、「高貴王」とも呼ばれる。1155年11月11日に、父サンチョ3世と、ナバラ王ガルシア6世の娘ブランカとのあいだに生まれた。母は1156年に亡くなり、祖父の跡を継いだ父も、翌1158年に急死したため、幼くして即位した。摂政に任じられたララ家とカストロ家が争い、その隙に、親戚である外国もカスティーリャに攻め込んだ。母方の伯父であるナバラ王サンチョ6世と、父方の叔父であるレオン王フェルナンド2世が侵攻し、レオン軍がトレドとブルゴスを攻め、ナバラ軍がラ・リオハを占領した。1169年に成人式を迎え、翌1170年に親政を宣言し、イングランドからレオノールを王妃に迎えて、窮地を脱した。1173年にはナバラへ攻め入り、イングランドの仲裁で有利な講和を結んで、カスティーリャを立て直した。
治世の後半は、ムワッヒド朝に対するレコンキスタに力を注いだ。1176年のムワッヒド朝の遠征で、キリスト教勢力はトレドを中心とするタホ川流域まで後退した。1177年1月、東へ進んでクエンカを包囲し、9月に陥落させた。アラゴンとの結びつきを強め、1179年のカソーラ条約で、カスティーリャは西のムルシアを、アラゴンは東のバレンシアを得ることを取り決めた。一方、1188年にフェルナンド2世が没し、跡を継いだ従弟のレオン王アルフォンソ9世に臣従を強いたため、強い恨みを買った。アラゴン王アルフォンソ2世にも背かれ、1191年にはナバラ、ポルトガル、アラゴン、レオンが反カスティーリャ同盟を結んで、カスティーリャは孤立した。1192年に、教皇ケレスティヌス3世の提案を受け入れてアラゴンとレオンと和睦し、同年から1194年にかけて、3度目のアンダルシア略奪遠征を行った。
1195年、ムワッヒド朝のアミール、ヤアクーブ・マンスールが北上し、アルフォンソ8世はアラルコスの戦いで大敗した。カスティーリャの威信は失われ、レオンとナバラはムワッヒド朝と同盟を結んで反旗をひるがえした。アラゴン王ペドロ2世の助けを得て態勢を立て直し、1197年に娘ベレンゲラとアルフォンソ9世の結婚で和睦して包囲網が崩れると、同年マンスールと10年の休戦を結んだ。1200年には、ナバラのアラバ、ギプスコア、ビスカヤを手に入れ、ナバラは海への出口を失った。1208年には、パレンシアにスペイン初の大学を建てた。1209年までに、教皇インノケンティウス3世が諸国の和睦を実現させ、十字軍を呼びかけると、アルフォンソ8世は1210年に休戦を破って再戦した。1211年には、ムワッヒド朝がサルバティエラ城を落とし、長男フェルナンドも亡くなったが、決戦に向けて準備を進めた。
1212年、トレドにアラゴン、ナバラの軍、サンティアゴ騎士団とカラトラバ騎士団、十字軍志願者たちが集まった。アルフォンソ8世は混成軍を率いて6月に出発し、7月16日にナバス・デ・トロサでナースィルの軍と戦った。イスラム軍は大軍だったが士気は低く、キリスト教連合軍の士気が高いことが勝因となり、ナースィルに大勝した。戦後はバエサとウベダを得て、ハエンも制圧した。連合軍に疫病が流行して引き返したが、これでレコンキスタの優位が確立した。1214年にムワッヒド朝と休戦し、同年10月5日に58歳で没した。遺体はブルゴスのラス・ウエルガス修道院に葬られ、王位は末子のエンリケ1世が継いだ。王妃レオノールとの12人の子のうち、娘ベレンゲラはフェルナンド3世の母、娘ブランカはフランス王ルイ9世の母となった。
同じ年に亡くなった人物
- ティボー1世 (バル伯) (1214年没)
- ミカエル4世アウトレイアノス (1214年)
- ウィリアム1世 (スコットランド王) (1214年没)
- エレノア・オブ・イングランド (1214年没)
- ハインリヒ6世 (ライン宮中伯) (1214年没)
同じ地域に関係する人物
- ペドロ・ベルゲーテ (1500年代没)
- モーシェ・デ・レオン (1305年没)
- イサベル・デ・ポルトゥガル (カスティーリャ王妃) (1496年没)
- クラウディオ・サンチェス-アルボルノス (1984年没)
- イザベル・デ・バルセロス (1466年没)