HISTORICAL PERSON · 1214年没

エレノア・オブ・イングランド

カスティーリャ王アルフォンソ8世の王妃として夫と並んで統治に関わり、娘ベレンゲラとレオン王アルフォンソ9世の縁組を実現させてキリスト教諸国の結束を導いた。

生涯
1214年没
死亡地
スペイン王国(ブルゴス県 / ブルゴス)
出生地
フランス共和国(ドンフロン)
出典
世界地図
スペイン王国(ブルゴス県)

伝記

エレノア・オブ・イングランドは、カスティーリャ王アルフォンソ8世の王妃である。イングランド王ヘンリー2世と、アリエノール・ダキテーヌの次女(第6子)で、1162年10月13日(1161年とも)に、ノルマンディーのドンフロン城で生まれた。母と同じ「エレノア」の名を与えられ、幼いころは、ノルマンディーやポワチエなど両親の領地で育ち、詩とオック語の学びのなかで過ごした。1168年から1170年には、ポワチエの母の宮廷にいた。1165年、3歳のときに、父と神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサの同盟条約のなかで、皇帝の子で1歳ほどのフリードリヒと婚約したが、この約束は1169年までしか続かなかった。

1170年、わずか8歳で、前の年に戴冠したばかりのアルフォンソ8世と結婚した。結婚式はタラソナで行われた。持参金には、ピレネー山脈にほど近いガスコーニュが含まれていたとされる。アルフォンソは、妻に、30ほどの町や村の支配権と16の城、9つの港の収入を贈り、奪い返した土地の半分をいつも彼女に与えた。1180年、夫妻は、ブルゴスにシトー会のサンタ・マリア・デ・ラス・ウエルガス修道院を建てることを決め、この修道院は、1187年には国のすべてのシトー会の女子修道院の本院となり、夫妻と子孫の霊廟となった。1183年には、トレドの大聖堂に、トマス・ベケットに捧げられた礼拝堂を建てさせた。同じ年に、カスティーリャが1177年に奪い返したクエンカでも、モスクの跡に、イングランド・ノルマン様式の大聖堂を建てるよう命じた。

アリエノール・ダキテーヌが産んだ娘たちのなかで、母の政治的な気質を最も受け継いだのはエレノアだった。文化的な気質も受け継ぎ、吟遊詩人たちの後援者となって、カスティーリャの宮廷をポワチエに似た華やかな雰囲気に変えた。母と同じく多くの子を産み、自ら子供たちの教育にあたった。結婚契約や、長女ベレンゲラの最初の結婚の契約によって、各地の町や土地や城を直接支配し、夫とほぼ同じ力をもち、夫の意志を左右するほどであった。レコンキスタが停滞し、キリスト教国が互いに争うのを憂えて、長女ベレンゲラとレオン王アルフォンソ9世の縁組を夫に勧め、1197年に2人は結婚して、カスティーリャとレオンの関係は修復された。7年後の1204年に、教皇インノケンティウス3世の干渉でベレンゲラとアルフォンソ9世は離婚したが、2人の子フェルナンド3世がレオンを継ぐことになり、和睦が成立した。1204年に母が没すると、アルフォンソ8世は、妻の名でガスコーニュに攻め込んだ。翌年、イングランド王ジョンは妹に、会いに来るための通行許可を与え、1208年、アルフォンソは主張を取り下げた。

1214年に夫が亡くなると、エレノアは夫の埋葬を拒んで悲嘆にくれ、国土は荒れたと伝えられる。末子のエンリケ1世が幼くして即位し、離婚してカスティーリャに戻っていたベレンゲラが後見人となり、のちにベレンゲラが王位を継ぎ、次いで息子のフェルナンド3世が継いだ。エレノアは病に倒れ、夫の死のわずか26日後に亡くなり、遺体は、サンタ・マリア・デ・ラス・ウエルガス修道院に葬られた。アルフォンソ8世との間には12人の子が生まれた。そのなかには、ポルトガル王アフォンソ2世の妃ウラカ、フランス王ルイ8世の妃ブランカ、アラゴン王ハイメ1世の妃レオノールがいる。

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