伝記
明菴栄西は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、日本の臨済宗の宗祖であり、建仁寺の開山である。天台密教の葉上流の流祖でもあり、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。字が明菴、諱が栄西である。『元亨釈書』によれば、永治元年(1141年)4月20日に、吉備津神社の権禰宜、賀陽貞政の曾孫として生まれたと伝わる。生まれは備中国賀陽郡宮内村とされる。8歳で『倶舎論』と『婆沙論』を読んだと伝えられる。1151年に、備中の安養寺の静心に師事した。1154年、14歳で比叡山延暦寺に登って出家した。以後、延暦寺、吉備の安養寺、伯耆の大山寺などで天台宗の教学と密教を学び、行法にすぐれ、自分の坊号を冠した葉上流を興した。1157年に静心が亡くなると、遺言により法兄の千命に従い、翌年、千命から虚空蔵求聞持法を受けた。1159年、19歳のときに、比叡山の有弁に従って天台宗を学んだ。1167年には、伯耆の大山寺の基好から、金剛界と胎蔵界の両部の灌頂を受けた。
1168年4月、貴族の政争の具となって形骸化した日本の天台宗を立て直すため、平家の庇護と期待を得て、南宋に留学した。天台山の万年寺などを訪れ、9月に『天台章疏』60巻をもって、重源らと帰国した。南宋では禅宗が栄えており、栄西は、日本の仏教の精神の立て直しに禅を用いようと決意したという。ただし、第1回の入宋のときは、天台密教の著作に最も熱心に取り組んだ時期で、禅にどれほど関心をもっていたかは明らかでないともいう。1169年ごろ、備前の金山寺を復興し、葉上流の灌頂を行った。1175年には、誓願寺の落慶供養の阿闍梨となった。1187年に再び入宋し、仏教の源をたどるためインドへ渡ることを願ったが許されず、天台山の万年寺で虚庵懐敞に師事した。1189年に、虚庵懐敞に従って天童山の景徳寺に移り、菩薩戒を受けた。1191年、虚庵懐敞から臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け、「明菴」の号を授かり、同じ年に帰国した。九州の福慧光寺や千光寺などで布教を始め、帰国の際に宋で入手した茶の種を持ち帰って、肥前の霊仙寺で栽培を始めたと伝えられる。
1194年に、禅寺の感応寺を建てた。大日房能忍の禅宗も盛んになるにつれて、延暦寺や興福寺から排斥を受け、能忍と栄西に禅宗の停止が宣下された。1195年、博多に聖福寺を建て、日本最初の禅道場とした。この寺は、のちに後鳥羽天皇から「扶桑最初禅窟」の扁額を賜った。栄西は、自らも真言宗の印信を受けるなど、既存の勢力との調和をはかった。1198年に『興禅護国論』を著し、禅は既存の宗派を否定するものではなく、仏法の復興に重要だと説いた。京都での布教に限界を感じて、鎌倉に下り、幕府の庇護を得ようとした。1200年、頼朝の一周忌の導師をつとめ、北条政子が建てた寿福寺の住職に招かれた。1202年、2代将軍の源頼家の援助で、京都に建仁寺を建てた。建仁寺は、禅、天台、真言の三宗を兼ねて学ぶ寺であった。
1204年に『日本仏法中興願文』を著し、1206年には、重源の後を受けて東大寺の勧進職に就いた。1209年に、京都の法勝寺の九重塔の再建を命じられ、1211年に『喫茶養生記』を著した。1212年に法印に叙され、1213年には権僧正に昇進した。この年、頼家の子の栄実が、栄西のもとで出家した。1215年7月5日、京都の建仁寺で亡くなり、享年75(満74歳)であった。のちに曹洞宗の宗祖となる道元は、栄西を非常に尊敬し、『正法眼蔵随聞記』に、栄西についての逸話を数回紹介している。
同じ年に亡くなった人物
- Albert of Vercelli (1215年)
- ギラウト・デ・ボルネーユ (1215年没)
- 北条時政 (1215年没)
- ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス (1215年没)
- ベルトラン・デ・ボルン (1215年)