伝記
北条時政は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、鎌倉幕府の初代執権である。伊豆国の在地豪族、北条時方もしくは北条時兼の子で、北条政子と北条義時の父にあたり、得宗家の初代当主でもある。桓武平氏の流れを自称したが、系譜は系図ごとに異なり、疑う研究者も少なくない。もっぱら「北条四郎」を名のり、「北条殿」と呼ばれた。『吾妻鏡』は、40歳を越えた時政を「豪傑」とだけ記しており、その前半生と、内乱以前の北条氏は、謎に包まれている。
平治の乱で敗死した源義朝の嫡男頼朝が伊豆へ流されると、時政はその監視役となった。やがて頼朝と娘の政子が恋仲になり、時政は初め反対したが、結局2人の婚姻を認め、頼朝の後援者となった。治承4年(1180年)4月27日、平氏の打倒を促す以仁王の令旨が頼朝に届き、時政は頼朝と挙兵の計画を練って、山木兼隆を攻撃目標に定めた。『吾妻鏡』によれば、頼朝は挙兵を前に、工藤茂光らを1人ずつ呼んで密談したが、「真実の密事」を知っていたのは時政だけだったという。8月17日、頼朝軍は山木兼隆を襲って討ち取った。襲撃は時政の館を拠点とし、時政自身も加わった。しかし8月23日、石橋山の戦いで頼朝軍は大敗し、時政の嫡男宗時が討ち死にした。頼朝は海を渡って安房へ逃れ、時政は甲斐へ赴いて、挙兵した武田信義ら甲斐源氏と合流した。10月13日、甲斐源氏とともに駿河へ攻め込み、富士川の戦いで平氏軍は敗走した。12月12日、新しい大倉亭に頼朝が移る儀式に、時政も他の御家人とともに列した。
1182年、頼朝が愛妾の亀の前を寵愛していることを知った政子が激怒し、牧の方の父または兄の牧宗親に命じて、亀の前の住む家を壊させた。頼朝は宗親を叱って髻を切って辱め、これを知った時政は怒り、一族を率いて伊豆へ引き上げた。1184年には、時政の動向はほとんど見えなくなるが、この年に失脚した武田信義の後の駿河守護は、時政とみられる。1185年11月24日、頼朝の命で、時政は千騎を率いて入京し、頼朝の怒りを後白河院に伝えて交渉し、28日に吉田経房を通じて、「守護・地頭の設置」を認めさせた。時政の任務は、京都の治安維持、平氏の残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との交渉など多岐にわたり、その職務は京都守護と呼ばれた。施策は、「公平を思い私を忘るるが故なり」と概ね好評だったが、田舎者として笑われることもあった。1186年3月、時政は一族の時定ら35名を京都に残して離京し、後任には一条能保が就いた。在任は4か月と短かったが、義経失脚後の混乱を収めた。1189年6月には、奥州征伐の戦勝を祈って、北条に願成就院を建てた。
1193年、頼朝は富士で大規模な巻狩りを行い、駿河守護の時政が狩場や宿所を設けた。5月28日の夜、曾我兄弟が工藤祐経を討つ事件が起き、弟の時致の烏帽子親が時政だったため、時政を黒幕とする説もあるが、真相は不明である。1199年に頼朝が没すると、時政は十三人の合議制に名を連ね、幕府の有力者として姿を現した。1200年4月1日、遠江守に任じられ、源氏一門以外の御家人として、初めて守となった。しかし、将軍家の外戚の地位は、頼家の乳母父で舅でもある比企能員に移り、時政と比企氏の対立が激しくなった。1203年7月に頼家が病に倒れると、9月2日、時政は比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子一幡の邸に軍勢を差し向けて、比企氏を滅ぼした。
同じ年に亡くなった人物
- ベルトラン・デ・ボルン (1215年)
- Albert of Vercelli (1215年)
- 明菴栄西 (1215年没)
- ギラウト・デ・ボルネーユ (1215年没)
- ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス (1215年没)