伝記
ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスは、共和政ローマの政治家で、ガイウス・マリウス派の護民官である。紀元前100年12月10日にローマで没した。アップレイウス氏は平民の名門で、サトゥルニヌスという添え名はそれ以前から記録にある。当時鋳造された銀貨に刻まれたルキウス・サトゥルニヌスの名は、のちの護民官その人である可能性が高く、貨幣鋳造三人委員を経て財務官に進んだとも考えられている。
紀元前104年ごろ、サトゥルニヌスは財務官としてオスティアに赴任し、穀物の輸入を担当した。ところが元老院に解任され、後任には元老院筆頭のマルクス・アエミリウス・スカウルスが就いた。ディオドロスはこの解任を職務上の怠慢のためとするが、近年の研究者には、穀物価格が急に上がったのを受けて、元老院が市場を安定させた功績を自分たちのものにしようとしたのだとみる者もいる。キケロによれば、この屈辱がサトゥルニヌスを政治的に過激化させ、貴族派に敵対する煽動家に変えた。
紀元前103年、サトゥルニヌスは護民官に選ばれた。財務官を務めてから護民官になるまでは通常5年ほどかかるのに、異例の早さだった。マリウスは平民出身の新人で、貴族派の中心であるメテッルス家に対抗する立場にあった。彼はマリウス配下の兵の人気を得るため、アフリカ属州に新しい植民地をつくり、キンブリ・テウトニ戦争の退役兵に1人あたり100ユゲラ(約25ヘクタール)の土地を与える法案を出した。同僚の護民官が拒否権を使おうとすると、暴徒を使って妨げた。この年の終わりには支持者を動員し、マリウスの執政官再選を後押しした。
この時期には、国家に損害を与える行為を裁く「大逆罪法」も成立させたと考えられており、アラウシオの戦いで大敗した貴族のカエピオが訴追された。もう一人の指揮官マッリウス・マクシムスも訴えられ、亡命に追い込まれた。紀元前102年の監察官クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ヌミディクスは、サトゥルニヌスが解放奴隷の一人にティベリウス・グラックスの子だと名乗り出させたのを認めなかった。サトゥルニヌスが民衆をあおって彼を攻撃させ、自宅やカピトリヌスの丘で包囲させたが、騎士たちに撃退されたとも伝わる。この出来事は一人の年代記作者しか語っておらず、確かな再現は難しい。さらにヌミディクスはマケドニアなどへの新たな植民計画にも反対し、のちに国外へ亡命した。
サトゥルニヌスはその後も護民官に選ばれた。しかし、紀元前99年の護民官選挙の有力候補で、オプティマテス(元老院派)のガイウス・メンミウスを、自派の運動員に殺させた。元老院は彼を国家の敵と宣告し、「セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム」(元老院最終決議)を突きつけた。マリウスは元老院の側につく道を選んだ。サトゥルニヌス派は、鎮圧に出たマリウス率いるローマ軍とフォルム・ロマヌムで市街戦となって敗れ、支持者とともにカピトリヌスの丘に立て籠もった。水を断たれて降伏すると、マリウスは降伏を受け入れて、彼らをクリア・ホスティリア内に収容した。ところが反サトゥルニヌス派がそこを襲い、石や屋根瓦を投げつけて、サトゥルニヌスは支持者とともに殺された。実行犯の一人はガイウス・ラビリウスだった。37年後の紀元前63年、同じサトゥルニヌス派として殺された親族を持つティトゥス・ラビエヌスが、カエサルの支援を得て護民官の権限を行使し、ラビリウスをサトゥルニヌス殺害の罪で刑事告訴した。
同じ年に亡くなった人物
- コンミウス (紀元前 100年(推定))
- クレオパトラ (紀元前100)
- ガイウス・アントニウス・ヒュブリダ (紀元前 100年(推定))
- ルキウス・カエキリウス・メテッルス・ディアデマトゥス (紀元前 100年(推定))
- テウトボド王 (紀元前100)
同じ地域に関係する人物
- オスカル・ルイージ・スカルファロ (2012年没)
- エルコール・コンサルヴィ (1824年没)
- ジョルジョ・ナポリターノ (2023年没)
- ルキウス・ポルキウス・カト (紀元前89年没)
- フランチェスコ・サルヴィアーティ (1563年没)