伝記
ポントスのクレオパトラは、紀元前110年ごろに生まれ、前58年より後に没したポントス王国の王女で、アルメニア王妃となった女性である。ポントス王ミトリダテス6世と王妃ラオディケの娘の一人で、同名の姉妹と区別するため「大クレオパトラ」とも呼ばれる。ポントス王国で生まれ育ち、のちにアルメニアのティグラネス大王の妻となった。
結婚の時期は前94年とも前95年ごろともされる。ミトリダテスは、ローマとの戦いで味方につけたいティグラネスを自分につなぎ止めようとして娘を嫁がせた。縁談は、ミトリダテスの腹心ゴルディオスを通じて進められたと伝わる。これによってポントスとアルメニアの同盟が固められた。ティグラネスは、ミトリダテスがスッラに迫られてカッパドキアをアリオバルザネスに返さざるをえなくなった際、舅の求めに応じてカッパドキアを攻めており、アリオバルザネスはティグラネスが近づくとローマへ逃れたとされる。クレオパトラはティグラネスの生涯とアルメニア全体にとって決定的な役割を果たしたといわれ、ティグラネスとの間に3人の息子と、数人の娘をもうけた。息子はザリアドレス、のちの小ティグラネスと、名の伝わらないもう一人である。娘の一人はパルティア王パコロス1世に、もう一人はメディア・アトロパテネの王ミトリダテス1世に嫁いだ。
宮廷でのクレオパトラの姿を伝える逸話もある。アテナイの修辞学者アムピクラテスは、故郷を追われ、ティグリス河畔のセレウキアからも追放されたあと、ティグラネスの妃クレオパトラのもとに身を寄せた。だがのちに彼女の寵愛を失い、絶食して自ら命を絶った。クレオパトラは彼を手厚く葬り、サファに墓を建てたという。また、第三次ミトリダテス戦争のさなかの前72年には、夫に向かって、ルクルスに対して積極的に援軍を出すよう促したが、あまり成果はなかったとされる。
やがてティグラネスはミトリダテスとは異なる外交方針をとった。前68年のアルタクサタの戦いののちにはローマと条約を結ぶに至る。このためクレオパトラは父の影響のもと、息子たちをティグラネスへの裏切りに誘ったとされる。前66年にポンペイウスは小ティグラネスを捕らえ、人質としてローマへ連れ去った。小ティグラネスは前58年にプブリウス・クロディウス・プルケルの助けで脱出した。この出来事は歴史家アスコニウスが記している。息子たちは王位を奪おうとして失敗し、ザリアドレスとその弟はティグラネスに処刑された。
ティグラネスのもとを離れたクレオパトラは、父のもとへ逃れ、残りの生涯をポントスで過ごした。前64年にはファナゴレイアの城にいたことが知られる。そこで市民が反乱を起こした際、兄弟たちとは違い、最後まで踏みとどまり、ミトリダテスが援軍の船を送って彼女を救い出したという。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス (紀元前 100年(推定))
- Bhagabhadra (紀元前100)
- Pasiteles (紀元前100)
- ソシゲネス (紀元前 100年(推定))
- ユリア (紀元前100)
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