伝記
イブン・ジュバイルは、12世紀から13世紀にかけて活躍した、アンダルス出身のムスリムの旅行家である。1145年9月1日に、スペインのバレンシアで生まれた。祖先は、メッカ近くに住むキナーナ族の出で、740年に、ダマスクスのカリフが送った、ベルベル人の反乱を鎮める軍に従い、そのままイベリア半島に住んだと伝えられる。シャーティバで、役人だった父と、ウラマー(学者)から、イスラームの諸学とアラビア語の諸学を学んだ。のちにムワッヒド朝の建国者アブドゥルムウミンの息子の一人で、グラナダ太守のアブー・サイードに、書記として仕えた。
14世紀の歴史家イブン・アル=ハティーブは、メッカ巡礼を決意した理由を、次のように伝える。あるとき、アブー・サイードが、敬虔なイブン・ジュバイルに、7杯の酒を飲むよう強いた。断れずに飲み干したあと、アブー・サイードは後悔し、杯を金貨で満たして、イブン・ジュバイルの衣服の胸もとに、7回、注ぎ込んだ。不本意に禁酒の戒律を破ったイブン・ジュバイルは、罪を償うため、メッカ巡礼を決意したという。ただし、この説は出どころがあやしく、巡礼が罪の償いとなることはまれだったとして、疑う研究者もいる。東方のイスラーム世界の情報を集める任務が与えられていたと推測する説もある。
アブー・サイードから受け取った金貨を元手に、1183年2月3日、友人の医師イブン・ハッサーンとともに、グラナダを発った。まず、ジブラルタル海峡の対岸のセウタに渡り、2月24日にジェノヴァの船に乗って、アレクサンドリアへ向かった。途中、サルデーニャ島の沖で、北アフリカからさらわれて奴隷として売られようとしているムスリム80人の男女と子供の運命を聞いた。サルデーニャとシチリアのあいだで、船は激しい嵐にあった。3月26日にアレクサンドリアに着いた。町では、当時まだ立っていた大灯台を見て、その大きさと壮麗さに驚いた。カイロでは、サラディンの善政をたたえ、「その正義と、街道にもたらした安全のおかげで、人々は夜でも用事で出歩き、闇を恐れない」と記した。サラディンがつくった学院や宿舎、毎日2千個のパンを貧しい人に配ることにも感心した。一方、前のシーア派のファーティマ朝には、ひどく批判的だった。その後、ナイル川をさかのぼり、砂漠を越えて紅海の港に着き、ジッダを経てメッカに着いた。メッカのカアバ神殿に参り、メディナではムハンマドの墓を訪ね、バグダードへ向かった。盛りを過ぎたバグダードを見て、昔の繁栄を思った。
そのあとシリアへ向かい、アレッポ、ダマスクス、アッコンを訪れた。イスラーム勢力と十字軍国家のあいだで戦いが絶えないのに、商人や両方の宗教の巡礼者が、妨げられずに二つの勢力の支配地を行き来するのを、不思議に感じた。1184年10月18日、アッコンから船でシチリア島へ向かい、メッシーナ海峡で船が難破した。シチリア王グリエルモ2世に救われてパレルモに移され、王国の繁栄と、抑圧を受けながらもキリスト教徒と共存するムスリムの姿を目にした。トラーパニから出航し、1185年3月にカルタヘナに着いて、4月25日にグラナダへ帰った。旅は2年あまりに及んだ。1189年から1191年にかけて、2度目のメッカ巡礼を行ったが、旅行記は残していない。1217年に3度目の旅に出て、アレクサンドリアにとどまって教え、11月29日にこの地で亡くなった。第1回の巡礼の旅行記は、巡礼記として優れ、のちの多くの旅行記に借用され、十字軍やシチリアの状況を知る貴重な史料とされる。
同じ年に亡くなった人物
- アブド・アル=ハック1世 (1217年)
- アレクサンダー・ネッカム (1217年)
- Caupo of Turaida (1217年)
- David of Dinant (1217年)
- イザベル・オブ・グロスター (1217年没)
同じ地域に関係する人物
- ペルガのアポロニウス (紀元前190年代没)
- カリマコス (紀元前240年没)
- ボブ・アザム (2004年没)
- ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 (1947年没)
- Agathocles of Egypt (紀元前202)