伝記
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は1869年、ナポリで生まれた。父は後のイタリア国王ウンベルト1世、母はマルゲリータで、王位継承者としてナポリ公の称号を与えられた。身長は約153センチとされ、当時のヨーロッパ人としては小柄だった。南部で幼少期を過ごし、士官学校で軍事教育を受けた。1896年、モンテネグロ王女イェレナと結婚した。妻は結婚に際してカトリックに改宗し、二人の間には後継者となるウンベルトら一男四女が生まれた。
1900年、父ウンベルト1世が暗殺されると、30歳で王位を継いだ。立憲君主として政治への介入を避ける姿勢を見せ、首相ジョヴァンニ・ジョリッティをたびたび重用した。一方、国王には議会解散や首相任命など強い権限が残されていた。第一次世界大戦が始まると、オーストリアとの対立を抱えたイタリアは当初中立を保った。連合国側から参戦を求められると、領土回復を期待する参戦派と、戦争の負担を懸念する中立派の間で議論が続いた。議会がサランドラ首相の解任を決めた際、国王はこれを拒み、1915年にイタリアを連合国側で参戦させた。戦争中は前線を訪れ、兵士を見舞った。カポレットの戦い後の訪問では、兵士たちを励まして支持を集めた。
戦後、南チロルとイストリアを得た一方、ダルマチアなどを獲得できなかったことへの不満や、戦争の人的・経済的負担から社会が不安定になり、労働争議が広がった。ファシスト党が勢力を増す中、1922年にムッソリーニがローマ進軍を始めると、政府は戒厳令を準備したが、国王は署名を拒んだ。軍の幹部が鎮圧を進言する中での決定だった。ファクタ政権が崩れると、ムッソリーニに首相の組閣を認めた。国王は後に内戦を避けるためだったと釈明したが、保守派の助言を受けてファシスト党を後押ししていたとされる。ファシスト政権が独裁化し、反対派への弾圧や政治家の暗殺が進んでも、国王はこれを止めなかった。1929年にはムッソリーニが国王の代理でラテラノ条約に署名し、教皇庁と王家の長年の対立に終止符が打たれた。
1938年、議会は国王とムッソリーニに軍の最高指揮権を表す第一元帥の称号を授けた。1936年に併合されたエチオピアでは国王が皇帝となり、1939年のアルバニア併合後には同国王も兼ねた。人種法が政策に反映されても、ファシスト政権への支持を変えなかった。第二次世界大戦ではイタリアが軍備の整わないまま参戦し、リビアや東アフリカを失い、連合軍はシチリア島にまで迫った。1943年7月、王国大評議会がムッソリーニの解任を決議すると、国王はクーデター派によるムッソリーニの解任と軟禁を後押しし、バドリオを首相に任命した。またエチオピア皇帝とアルバニア国王の地位を退いた。同年9月8日、アメリカ政府がイタリアの無条件降伏を一方的に宣言すると、国王は南部のブリンディシへ逃れた。軍の指揮系統は崩れ、兵士たちは各地で武装解除された。
1944年、ローマ解放後に息子ウンベルトが摂政となり、国王は政務を離れた。1946年に退位した後、王政の存続を問う国民投票で共和制が選ばれ、エジプトへ渡った。ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は1947年12月28日、亡命先で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ (1947年没)
- メレディス・コルケット (1947年没)
- ウォルター・ドナルドソン (1947年没)
- フリードリッヒ・パッシェン (1947年没)
- エリアス・カッツ (1947年没)
同じ地域に関係する人物
- バシレイデース (140年代没)
- Pope John I (II) of Alexandria (505年没)
- ムスタイーン (1430年没)
- ラルフ・アバークロンビー (軍人) (1801年没)
- ハーリド・サイードの死 (2010年没)