HISTORICAL PERSON · 1218年没

クチュルク

敗走の末に西遼の王位を簒奪したナイマン部の王族で、仏教に改宗してイスラム教徒を弾圧したため領民の反感を買い、モンゴル軍の将軍ジェベに滅ぼされた。

生涯
1218年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

クチュルクは、モンゴル高原西部の遊牧集団ナイマン部の王族で、西遼(カラ・キタイ)の第4代皇帝であり、1218年に没した人物である。「力ある者」を意味するテュルク語に由来する名をもち、屈出律、曲出律、古出魯克などと漢字で書かれる。ナイマン部の首長タヤン・カンの子であった。1204年、父がチンギス・カンに敗れると、イルティシュ川の方面へ逃れた。この戦いの前、タヤン・カンは、アルタイ山脈まで退いてモンゴルを攻めるほうがよいと考えたが、クチュルクは、広い場所でモンゴルを直接攻めることを主張し、父の策を臆病と退けた。父は折れ、クチュルクに攻撃を任せたが、戦いはナイマンの惨敗に終わった。タヤン・カンは致命傷を負い、主力の将が戦死して、一族の多くはチンギスに降伏した。

1205年の春、クチュルクは、メルキトのトクトア・ベキと合流し、イルティシュ川の支流ブグドルマ川の近くで、チンギスを迎え撃った。トクトアは流れ矢に当たって死に、クチュルクは西遼のグル・カン(チルグ)のもとに身を寄せた。チンギスは、なお、クチュルクの脅威を警戒しており、1208年に再び戦って、クチュルクを、さらに西のジェティスーへ追いやった。二度目の敗北を経て、クチュルクは、バラサグンを都とする西遼に庇護を求めた。クチュルクはチルグに厚遇され、助言者として仕え、娘の渾忽公主と結婚し、その娘婿になった。ハンの称号を与えられ、ナイマンの残党を軍に再編することも許された。

そのころ西遼は、東方の反乱に対処するとともに、西方ではホラズム・シャー朝のムハンマド2世と争っていた。クチュルクは、ホラズム・シャーと同盟を結んでいたらしい。1210年、サマルカンドでカラハン朝の反乱に対処していたチルグに対して、クチュルクは反旗を翻し、ウズゲンの国庫を奪った。チルグは、サマルカンドを離れてクチュルクを討とうとしたが、その隙にムハンマドがサマルカンドを奪い、タラス付近で西遼軍を破って、マー・ワラー・アンナフルを手に入れた。チルグは都のバラサグンに引き返してクチュルクを破り、クチュルクは東のナイマンの領地へ退いた。しかし、1211年、チルグが狩りに出ている間に、クチュルクは待ち伏せして、これを捕らえた。クチュルクは、チルグを太上皇とし、自分が皇帝となった。クチュルクは、大遼の称号をそのまま使った。

即位後、クチュルクは、カラハン朝の残部が西遼の宗主権のもとで存続していた、タリム盆地南部のホータンやカシュガルを次々に征服し、中央アジアに勢力を広げた。契丹人貴族の支持を得るため、妻の影響も受けて、ナイマンの旧来の信仰であるネストリウス派キリスト教から、仏教に改宗した。しかし、熱心な仏教徒となってイスラム教を弾圧したため、領内の住民の大多数を占めるムスリムの反感が強まった。ジュヴァイニーによれば、ある町のムスリムに、ネストリウス派か仏教に改宗するか、契丹の服を着るかを選ばせたといい、ホータンのイマームを学院の門に磔にしたともいう。

クチュルクは、アルマリクを攻めた。そこのカルルク人は、チンギス・カンに助けを求めた。1216年、チンギスは、将軍ジェベに、クチュルクを追わせた。1218年、クチュルクは、ジェベによって、サリク崖で滅ぼされた。クチュルクの子チャウンは、西遼の陥落時に父とともに殺された。チャウンの子チャウスは、当時12歳で、母が西遼の王族であり、母とともにチンギス・カンに降伏し、その一族はモンゴル帝国に仕えた。

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