伝記
カイカーウス1世は、ルーム・セルジューク朝のスルタン(在位1211年から1220年)である。前スルタンのカイホスロー1世の長男で、生年はわかっていない。1211年、アラシェヒルの戦いで父が死ぬと、2人の弟、カイフェリドゥーン・イブラヒムと、のちのカイクバード1世が、彼の継承に異議を唱えた。カイクバードは、はじめ、キリキア・アルメニア王レオ1世や、エルズルムの独立した君主である叔父トゥグリルシャーなど、近隣の支持を得た。同じころ、カイフェリドゥーンは、キプロスのフランク人に助けを求めて、最近手に入れたばかりの港アンタルヤを危うくした。しかし、大土地を持つ有力者である首長たちの多くは、カイカーウスを支持した。マラティヤを拠点に、カイセリ、次いでコンヤを奪うと、レオは彼の側に鞍替えした。カイクバードは、アンカラの要塞に逃れて、カスタモヌのトルコ系の遊牧民に助けを求めたが、カイカーウスはまもなく、2人の弟を捕らえて、王位を固めた。
この危険な時期に、ニカイア帝国の皇帝テオドロス・ラスカリスと和平の取り決めを結び、セルジューク朝とニカイア帝国との戦いは終わった。ルーム・セルジューク朝の経済的な自立を目指して、キプロス王国と交易条約を結んだ。南のキリキア・アルメニア王国を、遠征によって服属させた。1212年には、アンカラにメドレセを建てた。
1214年、トレビゾンド帝国のアレクシオス1世が、市の外へ狩りに出た際に、トルコ系の遊牧民に捕らえられ、スルタンに引き渡された。アレクシオスは、解放の代わりに、黒海に面した港シノペを割譲し、東の領土の臣従を認めた。これで、セルジューク朝は、地中海のアンタルヤに並ぶ黒海への出口を得た。引き渡しは、11月1日の日曜日に、スルタンとアレクシオスが立ち会って行われた。アレクシオスは数日のあいだもてなされたのち、丁重にトレビゾンドへ帰された。カイカーウスは、ギリシア人とトルコ人が混じって暮らすこの港の総督に、アルメニア人ライス・ヘトウムを任命し、市内の教会はモスクに改められた。1215年の4月から9月には、ギリシア人の建築家セバストスの監督のもとで、城壁が修復され、15人の首長が費用を出した。修復を記念する、アラビア語とギリシア語の碑文が、西門に近い塔にはめ込まれている。
カイカーウスは、第5回十字軍と結び、アイユーブ朝に二正面の戦いを強いた。1216年には、亡命したアイユーブ家の臣下アル・アフダルを支援して、アレッポを攻めたが、アル・アシュラフに敗れた。1217年には、シヴァスにシファイェ・メドレセの建設を始めた。この施設には病院も付属していた。1218年にアル・アフダルと同盟し、アル・アフダルは、アレッポを与えると申し出た。モスルの首長バドルッディーン・ルールーとの同盟も進めたが、1220年に急死して、同盟は崩れた。遺体は、シファイェ・メドレセの廟に葬られた。青いタイルで飾られた墓室と石棺は、今も残り、公開されている。スルタンの位は、弟のカイクバードが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- イングヴァリ1世 (1220年没)
- アラーウッディーン・ムハンマド (1220年没)
- ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ (1220年)
- ボギスラフ2世 (ポメラニア公) (1220年代没)
- アルブレヒト2世 (ブランデンブルク辺境伯) (1220年)
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