伝記
アリオバルザネス1世は、紀元前95年から前63年または前62年までカッパドキアを治めた王である。「ローマの友」を意味するピロロマイオスという添え名で知られ、アリオバルザネス朝の最初の王とされる。出自ははっきりしない貴族で、ペルシア系の家柄に属していた。先のアリアラテス朝と同じく、アケメネス朝のダレイオス大王の仲間の子孫を称したという。名前はイラン系の古い名のギリシア語形で、「アーリア人を高める」といった意味かともいわれる。
王位に就いた経緯は、カッパドキアの混乱と結びついている。アリアラテス7世がミトリダテス6世によって殺された後、ミトリダテスは幼い息子アリアラテスを王に立て、父殺しの下手人ゴルディオスを後見役に据えた。カッパドキア人は反乱を起こし、アリアラテス6世とラオディケの別の子アリアラテス8世を呼んで王にしたが、これもミトリダテスに破られて追放され、亡命先で心労がもとで病死した。ビテュニア王ニコメデス3世がラオディケをローマに送り、ミトリダテス側もゴルディオスを送って、互いに自分の側の主張を述べさせた。元老院は双方の偽りを見抜き、カッパドキアをミトリダテスから、パフラゴニアをニコメデスから取り上げて自由を与えた。ところがカッパドキア人は王を望んだため、元老院はアリオバルザネスを選んだ。別の説明では、元老院がアリアラテス9世の主張を退けたあと、住民の投票で擁立され、執政官スッラの支持を受けたとされる。
しかし、王位は安定しなかった。ほどなくティグラネス2世が攻め込んで王を追い出した。その背後にはミトリダテスがいて、自分の息子アリアラテスをこの国の王にしようとしていたのである。この企てはキリキア総督となるスッラがアルメニア軍を破ったため失敗し、王は復位した。のちの紀元前89年ごろ、ローマの総督たちがミトリダテスとの戦争を望むなかで、ローマ側はニコメデスとともにアリオバルザネスにもミトリダテスを攻めるよう促したが、王は様子を見る方針をとった。そこでミトリダテスは息子アリアラテスに大軍を授けてカッパドキアを奪わせ、王はまた従者とともにローマへ逃れた。アッピアノスによれば、王は二度追放されて二度戻っており、時期はおおよそ前93〜92年と前90〜89年にあたる。
前88年に第一次ミトリダテス戦争が始まると、カッパドキアはミトリダテスに占領され、王が復位できたのは和平が成った前84年である。王は戦争の間をローマで過ごし、スッラがミトリダテスを破ったのちに故国へ戻されたとされる。前83年にはムレナがカッパドキアに侵入したが敗れ、スッラの副官ガビニウスの調停で、ミトリダテスが娘をアリオバルザネスに嫁がせる形で収まった。その際にミトリダテスは領土をさらに加えたという。王はスッラに使節を送って異議を訴えたが、前79年にスッラが没し、訴えは元老院で取り上げられなかった。ミトリダテスはさらに、ティグラネス大王をけしかけて王国を攻めさせ、ティグラネスは30万人を捕らえて自国へ連れ去った。
こうして王国は三度ミトリダテスに追われたが、第三次ミトリダテス戦争ではポンペイウスのもとで領土を取り戻したうえ、さらに広げたと伝わる。やがて前63年または前62年に退位し、王位を息子のアリオバルザネス2世に譲った。王妃はギリシア系の貴族女性アテナイスで、2人の間には後を継いだ息子のほか、コンマゲネ王アンティオコス1世に嫁いだ娘イシアスが生まれた。王はアリアラテス朝と同じ型のギリシア風の貨幣を鋳造し、肖像にはローマ風の写実的な様式を採り入れてローマへの忠誠を示した。
同じ年に亡くなった人物
- Bhagabhadra (紀元前100)
- センプロニア (紀元前 100年)
- アルケラオス (軍人) (紀元前 100年(推定))
- マウエス (紀元前100)
- カラクテーのカイキリオス (紀元前 100年(推定))
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