伝記
イタロ・ズヴェーヴォは、1861年12月19日にトリエステで生まれたイタリアの作家である。本名はアーロン・エットレ・シュミッツで、当時のトリエステはオーストリア=ハンガリー帝国の領内にあった。筆名は「イタリアのシュヴァーベン人」という意味である。父フランチェスコはライン地方とハンガリーから来た家系のドイツ系ユダヤ人で、若いころにはたいへん貧しく、13歳で行商から出発し、1848年の革命の騒乱に巻き込まれて命の危険にもさらされたという。のちにトリエステでガラス製品の商売を始めて成功した。母アレグラは、同地のユダヤ人共同体に連なるイタリア人の女性だった。夫婦には八人の子が育ち、エットレは男子四人の二番目にあたり、弟のエリオとはとくに親しかったが、エリオは22歳で早世した。家庭は温かくまとまっており、のちの自伝的な文章では、幸福な少年時代として思い出されている。家ではトリエステ方言とイタリア語が話され、ユダヤ教の実践はそれほど厳格ではなかったという。
少年は地元のユダヤ人学校や商業教育を行う私立の学校で学んだ。12歳の1873年には、兄弟とともにバイエルンのヴュルツブルク近郊の寄宿学校の商業科に送られた。父はイタリアの愛国者でありながらドイツ文化に敬意を抱き、トリエステで商人になるにはドイツ語が必須だと考えていた。エットレはドイツ語を好まなかったが、すぐに身につけ、フランス語や英語も学んだ。ゲーテ、シラー、ハイネ、ショーペンハウアーといったドイツの思想家や詩人を読み、シェイクスピアの『ハムレット』のドイツ語訳を暗記するほど熱中した。寄宿学校には五年間とどまった。のちにトリエステに戻って、父の商売が傾くなか、高等商業学校に入った。
その後は実業家として暮らしながら、長篇小説や戯曲、短篇を書いた。イタリア人女性リーヴィア・ヴェネツィアーニと結婚するとカトリックに改宗している。1898年に刊行した初期の長篇『セニリタ』は、当時は黙殺された。1907年、ジェイムズ・ジョイスがトリエステのベルリッツ語学学校で働いていたとき、英語の個人教師としてズヴェーヴォと出会い、ジョイスはこの『セニリタ』を読んだ。1923年には長篇『ゼーノの意識』を自費で出版する。フロイトの影響を受け、ゼーノ・コジーニという男が精神分析医の勧めで記した回想録の形をとる作品だが、出版当時のイタリアの読書界にはほとんど顧みられなかった。
ジョイスはこの作品を激賞し、フランス語への翻訳を助け、パリでの出版を手配した。フランスの批評家たちが高く評価したことで、モンターレらイタリアの批評家も評価を改めた。ズヴェーヴォは第一次世界大戦の終わりまでオーストリア=ハンガリー帝国の市民であり、イタリア語は第二言語だったため、文章を悪文と評する批評家もいたが、別の批評家は、トスカーナ方言のトリエステ訛りというべき独特の文体だと見る。主人公ゼーノは、凡庸で、妻を裏切り、精神分析医を欺くために回想録を改竄する男として描かれる。禁煙のたびに「これが最後の1本」と誓い、その喜びのためにまた吸い始める人物でもあり、作者もまた喫煙をやめられなかった。1928年9月13日、トレヴィーゾ近郊のモッタ・ディ・リヴェンツァで没した。道路を横断中に自動車にはねられて自宅に運ばれたあと容態が悪化し、いまわの際に煙草を1本求めたが、断られたという。
同じ年に亡くなった人物
- メアリー・リッチモンド (1928年没)
- メダルド・ロッソ (1928年没)
- アーサー・ゴア (1928年没)
- レオシュ・ヤナーチェク (1928年没)
- ロバート・ランシング (1928年没)
同じ地域に関係する人物
- エルコレ3世・デステ (1803年没)
- トティ・ダル・モンテ (1975年没)
- ジャン・フランチェスコ・マリピエロ (1973年没)
- チーマ・ダ・コネリアーノ (1510年代没)
- フランチェスコ・バラッカ (1918年没)