伝記
初代ヘイグ伯爵ダグラス・ヘイグは、1861年6月19日に生まれ、1928年1月29日に没したイギリスの軍人である。ジョン・フレンチの後任として第一次世界大戦でイギリス海外派遣軍を率いたことで知られる。
エディンバラのシャーロット・スクエアの家で、「ヘイグ・アンド・ヘイグ」のウィスキー蒸留所を営む家の息子として生まれた。父ジョン・リチャード・ヘイグは一族の蒸留所の当主で、当時としては莫大な収入があったが、飲酒に溺れていた。母レイチェルは没落した地主階級の家の出で、両親とも彼が18歳になるまでに世を去っている。1869年にセント・アンドルーズの学校に寄宿生として入り、エディンバラの学校、ウォリックシャーの予備校を経てクリフトン・カレッジで学んだ。その後、兄と米国を旅してから、1880年から1883年までオックスフォード大学ブレーズノーズ・カレッジで政治経済学、古代史、フランス文学を学んだ。この間は社交と馬術に多くの時間を費やし、ブリンドン・クラブの会員となり、大学のポロの代表選手でもあった。最終試験には合格したが、病気で1学期の在寮を欠いたため学位は得られなかった。サンドハースト陸軍士官学校には1884年1月に入学し、年長の同期の中で首席の成績で卒業した。1885年2月7日、第7(女王直属)驃騎兵連隊に中尉として任官した。
軍歴の初めにはイングランド代表として米国遠征のポロを戦い、生涯のポロ愛好家であり続け、1914年から1922年までハーリンガム・ポロ協会の会長を務め、インド・ポロ協会も創設した。1886年11月にインドへ送られ、1888年に連隊の副官に任じられた。規律には厳しかったが、事務の手腕と訓練演習の分析で上官に感銘を与え、1891年に大尉へ昇進した。1893年には参謀大学の入学試験で成績は上位28位に入ったものの、必修の数学にわずかに届かず、入学できなかった。この失敗を生涯隠し、1910年には数学を要件から外すよう勧めたという。その後はマフディー戦争、ボーア戦争を騎兵将校として戦い、のちに陸軍省に勤務して、1908年の領土軍の創設に尽力した。
第一次世界大戦が勃発すると、イギリス海外派遣軍に第一軍団司令官として加わった。1915年、司令官のフレンチが部下との関係悪化などを理由に本国軍司令官となり、ヘイグがその後任となった。ソンムの戦いやパッシェンデールの戦いで莫大な損害を出し、「ソンムの肉屋」という不名誉なあだ名を付けられた。それでも1917年1月に元帥へ昇進し、大戦が終わるまで派遣軍を率いて、1918年の連合軍最終攻勢の成功に寄与した。この勝利はイギリス軍の主導した最大級の勝利と見る歴史家もいる。
戦後の評価は分かれる。戦争直後は好意的な評判を得て、葬儀の日は国民的な服喪の日となった。一方で1960年代以降は戦争指導を批判され、1980年代からは新戦術や新技術の採用、1918年の勝利で英軍が果たした役割を重視して擁護する歴史家も現れた。戦中から兵士たちの人望は厚く、戦後は退役軍人や傷痍軍人の福祉活動に尽力して慕われた。また、ディクソンは著書でヘイグを制度的硬直や権威主義に陥った典型例に挙げた。第一次世界大戦従軍時の日記は2015年にユネスコ記憶遺産に登録された。
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