HISTORICAL PERSON · 1223年没

フィリップ2世 (フランス王)

フランス・カペー朝第7代の王。イングランドのプランタジネット家に勝って大陸領土の大部分を王領に併合し、フランス王権を大きく伸ばした。尊厳王と呼ばれる。

生涯
1223年没
死亡地
フランス共和国(イヴリーヌ県 / マント=ラ=ジョリー)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(イヴリーヌ県)

伝記

フィリップ2世は、カペー朝第7代のフランス王(在位1180年〜1223年)である。1165年8月21日、現在のヴァル=ドワーズ県のゴネスで、ルイ7世と3番目の妃アデル・ド・シャンパーニュの間に生まれた。ルイ7世の唯一の男子で、異母姉が四人、同母妹が一人いた。当時のカペー家の実権は、本領のイル=ド=フランスと散在する王領にとどまり、ノルマンディー公やフランドル伯ら有力諸侯と同程度でしかなかった。しかも父の代には、アリエノール・ダキテーヌを離縁してヘンリー2世と結婚させたことで、イングランドから南フランスに及ぶアンジュー帝国が生まれていた。世継ぎがなくプランタジネット家に併合されかねないと見られた時期に誕生した彼は、幼いころは病弱で、一時は生命を危ぶまれるほどの重病になり、父がイングランドの聖トマス・ベケットの祠へ治癒を祈りに渡ったほどだった。

14歳で共同統治王として戴冠し、1180年に父が亡くなると15歳で単独の王となった。同年、エノー伯ボードゥアン5世の娘イザベルと結婚し、生まれた王太子ルイを通じてカペー家とカロリング家の血を結びつけた。当初は摂政の舅ボードゥアン5世や、母の実家であるブロワ家の力が強かったが、まもなく彼らを抑えて親政を始めた。

最大の課題はプランタジネット家との抗争であった。ヘンリー2世とその息子たちの不仲を利用する方策を受け継ぎ、ジョフロワと親しくなり、その死後はリチャードと結び、1188年には父への反乱を起こさせた。跡を継いだリチャード1世とは共に第3回十字軍に向かったが、現実主義者の彼は十字軍に情熱を持たず、アッコン陥落後まもなく病気を理由に帰国した。帰国後はリチャードの弟ジョンの王位簒奪を扇動し、リチャードが捕らわれると解放を遅らせようとしたが、成功しなかった。1194年のフレトヴァルの戦いでは金庫や公文書まで捨てて逃げるほどの大敗を喫し、1196年のガイヨン条約でほぼ全ての占領地を返還している。

しかし、1199年にリチャードが戦死してジョンが王位に就くと、状況は一変する。1200年にジョンが婚約者のいたイザベラ・オブ・アングレームと結婚したことを、婚約者だったユーグ・ド・リュジニャンが訴えると、フィリップは召喚を拒んだジョンから大陸領土の没収を宣言した。1203年にジョンがアルテュールを捕らえて殺害すると、諸侯はジョンを見限り、ノルマンディー、アンジュー、メーヌ、トゥレーヌ、ポワトゥーがほとんど抵抗なく降伏した。1214年には、ジョン、皇帝オットー4世、フランドル伯フェランの南北挟撃に対し、王太子ルイを南へ送り、自らはブーヴィーヌの戦いで勝利した。

私生活では、デンマーク王女インゲボルグとの結婚後まもなく離婚を宣言して別の女性と再婚したため、1198年に教皇インノケンティウス3世から破門され、国は聖務停止となった。ミサも洗礼も葬儀も行われず、埋葬されない遺体が並んで伝染病が流行したという。1213年に海軍の大半を失うと、デンマークの助力を得ようと、幽閉していたインゲボルグを王妃として呼び戻した。臨終の際には、王太子ルイに彼女の世話を頼んだと伝えられる。晩年は、パリの道路の舗装や城壁の建設を進め、パリ大学の創立にも協力し、バイイ制を敷いて支配機構を整えた。1223年7月14日に没し、フランスをヨーロッパ随一の強国へ導いた王として尊厳王と呼ばれる。

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