HISTORICAL PERSON · 1224年没

宣宗 (金)

金の第8代皇帝。叔父の衛紹王が殺害されて皇帝に擁立された。モンゴルの侵攻を受けて屈辱的な条件で講和し、開封へ遷都したが、中都は陥落して華北の大半を失い、財政策の失敗でインフレも招いた。

生涯
1224年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

宣宗は、金の第8代皇帝である。女真名は吾睹補(ウトゥプ)、漢名は珣といい、のちに従嘉と改めた。1163年4月18日に生まれた。宣孝太子胡土瓦の庶長子で、世宗の孫にあたり、前の皇帝衛紹王の甥である。1178年に温国公に封じられ、1186年に珣と名乗り、1189年に章宗から豊王に封じられて、近衛軍の彰徳隊を率いた。1196年に翼王となり、1205年に従嘉と改名し、のちに邢王、さらに升王に封じられた。

1211年から、モンゴル帝国が金の領土へ侵攻を始め、耶律留哥ら侵攻を受けた地域の将軍たちが金を見限ってモンゴルに帰順する事態が相次いだ。金軍は敗北を重ね、兵力は弱まった。1210年ごろから西夏もモンゴルの攻撃を受け、金に援助を求めたが、金は援軍を出さなかった。至寧元年(1213年)8月、モンゴルとの戦いの責任を問われることを恐れた将軍の胡沙虎が衛紹王を殺害し、その後継者として、河北にいた宣宗を皇帝に擁立した。胡沙虎は、宣宗の長男の守忠を、都の中都で一時的に監国につけた。9月、宣宗は中都に戻って即位し、貞祐と改元した。10月に、胡沙虎が将軍の朮虎高琪に殺されたため、宣宗は胡沙虎の傀儡から脱した。同じ年の秋、チンギス・カンは第2回の金遠征を行い、軍を三つに分けて攻めた。河北、河東、山東の90あまりの郡の都市が略奪され、守備隊を備えて陥落を免れた都市は、大名府や真定府など、わずか9つだったという。

貞祐2年(1214年)の4月、チンギスの軍は中都に至って完全に包囲した。丞相となった朮虎高琪は、疫病と疲れを理由に、中都から打って出て攻めるよう説いたが、宗室でもある宰相の福興が、出撃して敗れれば軍が散って都が戦火にさらされると指摘し、宣宗はこれを採用した。宣宗はモンゴルと講和し、従妹の岐国公主を、童男女各500人とともにチンギスに嫁がせ、御馬3000頭、金銀珠玉など多数の持参金を持たせるという屈辱的な条件で、和睦を結んだ。モンゴル軍は撤退した。同じ年の5月(6月とも)、チンギスの再度の侵攻を恐れた宣宗は、中都から開封へ都を移した。中都には太子の守忠を残した。契丹人の守備部隊が馬や甲冑の回収を拒んで反乱を起こし、その指揮官の一人がチンギスに援助を求めたため、チンギスは遷都を反抗と受け取り、再び金への侵攻を命じた。貞祐3年(1215年)に中都は陥落し、金は華北の領土の大半を失った。この年の10月には、将軍の蒲鮮万奴が遼東で背いて、東夏を建てた。

内政では、軍事力の増強と国庫の収入の好転をはかる財政政策が失敗し、インフレが起こって、経済は混乱した。王朝の弱体化を見て、それまで金に服属していた有力な漢人や契丹人の諸侯が自立する動きも目立った。1220年のはじめには、朮虎高琪が敗北を重ね、反乱を企てたとして、宣宗はこれを処刑した。宣宗が、西夏との関係を断ち、南宋とも戦って、三つの戦線を抱えたことが、金の滅亡の原因になったと評される。1224年1月14日(元光2年とする記述もある)に崩御した。次男の守緒が哀宗として跡を継ぎ、開封の徳陵に葬られた。

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