伝記
寧宗は、南宋の第4代皇帝である。諱は拡という。乾道4年(1168年)11月19日に、当時恭王だった光宗と李氏の子として生まれた。光宗の次男で、ただ一人生き残った子である。淳熙5年(1178年)に英国公に封ぜられ、淳熙12年(1185年)に平陽郡王となった。光宗が即位すると、嘉王に進められた。紹熙年間には、嘉王を皇太子に立てようとする光宗と、これに消極的だった孝宗とのあいだで葛藤が高まり、立場が微妙になった。即位の前、高宗の霊柩を葬るために紹興へ行った際には、農民が田畑で働く姿を見て、「宮中にだけ住んでいたので、どうしてこれを知ることができようか」と嘆いたという。
紹熙5年(1194年)、病弱な父光宗が、趙汝愚と太皇太后呉氏によって廃位されると、皇帝に即位した。政変で趙汝愚に協力した韓侂冑は、韓皇后の同族という縁から大きな権力を持ち、趙汝愚を失脚させて独裁体制を築いた。反対勢力の朱熹も追放し、その理学を禁じた。慶元党禁である。1197年には、子がなかったため、幼い趙詢を養子に迎えた。開禧元年(1205年)、韓侂冑は平章軍国事に任じられた。韓皇后の死で後ろ盾を失った韓侂冑は、権力を保つため、金への大規模な北伐に着手した。1206年6月14日に戦争が宣言されたが、情報も準備も不十分で、戦況はすぐに不利となった。同年12月に四川の呉曦が金に寝返り、翌年3月に殺された。1207年12月15日、新しく皇后となっていた楊氏の義兄と、史弥遠らが、韓侂冑を殺し、その首を金に送った。1208年11月2日に和議が結ばれ、宋の歳幣は増えた。条件は厳しかったが、速やかな和議により、史弥遠が朝廷の実権を握った。
治世の後期は、宰相の史弥遠が政治を専断した。寧宗には9人の息子がいたが、いずれも幼くして死んだ。開禧3年(1207年)、養子の趙詢が皇太子に立てられた。1210年にモンゴルが金への臣従をやめ、1211年に攻撃を始めた。宋の朝廷は、弱った金への歳幣の停止を議論したが、金を刺激しないことを選んだ。1217年には、領土を失った金が、その埋め合わせに宋を攻めた。嘉定13年(1220年)、趙詢は赤痢で、29歳で亡くなった。史弥遠は趙竑を後継者としたが、趙竑は史弥遠を牽制しようとして警戒を買った。史弥遠は、趙昀(のちの理宗)を民間から探し出し、秘密裏に陰謀を進めた。
嘉定17年(1224年)9月17日、寧宗は病に倒れて数日後に崩御した。毒殺されたのではないかともいわれる。史弥遠が遺詔を偽造して、趙竑は廃され、趙昀が擁立された。寧宗は質素で節制した生活を守ったとされる。ある年の小正月、夜に蝋燭を灯して座っていたとき、宦官が宴会を勧めても、外の民には食べ物がないと拒んだ。信条を記した小さな屏風を宦官に背負わせて持ち歩き、酒は3杯以上飲まなかった。芸術の保護者でもあり、梁楷や馬遠らの画家を画院の待詔に取り立て、その絵に詩を書いた。
同じ年に亡くなった人物
- 夏珪 (1224年)
- 運慶 (1224年没)
- アブドゥル・ワーヒド1世 (1224年没)
- 宣宗 (金) (1224年没)
- ユースフ2世 (ムワッヒド朝) (1224年没)