HISTORICAL PERSON · 1226年没

ルイ8世 (フランス王)

獅子王と呼ばれたカペー朝第8代のフランス王。ジョン王をポワチエで破り、イングランドに侵攻してロンドンを占領したが撤退。即位後はアルビジョア十字軍を率いて南仏に王権を広げ、帰路で没した。

生涯
1226年没
死亡地
フランス共和国(ピュイ=ド=ドーム県 / モンパンシエ)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(ピュイ=ド=ドーム県)

伝記

ルイ8世は、1187年9月5日に生まれ、1226年11月8日に没したフランスのカペー朝第8代国王(在位1223年〜1226年)である。フィリップ2世と最初の妻イザベル・ド・エノーの長男で、「獅子王」と呼ばれた。母イザベルは西フランク王家だったカロリング家の血を引いており、カペー家とカロリング家の両方の血を受け継ぐ彼の誕生は、フランス王の正当性をより高めるものと考えられた。母は1190年に亡くなったが、彼は父から、統治を学ぶためにアルトワ伯領の名目上の支配を与えられている。1200年5月23日には、カスティーリャ王アルフォンソ8世の娘ブランシュ・ド・カスティーユと結婚した。

王子としての彼は、まず1214年に、フランスを挟撃しようとギエンヌから侵攻してきたイングランド王ジョンと対峙した。父はこの年、ジョンやドイツ皇帝オットー4世らの同盟に、二方面から攻められる状況にあり、ルイは南のポワトゥー方面の軍を任された。緒戦ではジョンに翻弄されてアンジェを失ったが、ジョンがロシュ・オー・モワヌの城を包囲したときに戦いを強いられ、現地の貴族が王に従わなかったこともあって、ジョンは撤退した。まもなく北のブーヴィーヌの戦いで父が勝利し、ジョンのノルマンディー奪回の望みは絶たれた。1215年4月には、父が誓った十字軍への参加として、アルビジョア十字軍に加わり、ナルボンヌやトゥールーズで、シモン・ド・モンフォールを支持する処置をとっている。

1215年、不人気なジョンに反乱を起こしたイングランド諸侯は、彼の妻がヘンリー2世の子孫であることから、王位を彼に提案した。1216年5月21日、彼はイングランド東部のケントに無抵抗で上陸し、ロンドンで盛大に「イングランド王」と宣言された。戴冠には至らなかったが、多くの貴族やスコットランド王も臣従を誓い、ウィンチェスターも奪った。5月29日には教皇特使から破門されている。しかし10月にジョンが急死し、9歳の息子ヘンリー3世がマグナ・カルタを再発布して諸侯と和解すると、多くの諸侯が離反し、彼は撤退を余儀なくされた。ランベス条約では1万マルクを受け取り、二度とイングランドへ侵攻しないことを誓って、破門を解かれた。

1217年に戻ってからも、南仏諸侯の反撃に苦戦するアルビジョア十字軍を支援した。1223年に父が没して即位すると、ユダヤ人から借金することを禁じる布告を出したが、シャンパーニュ伯ティボー4世はこれに従わず、対立した。1224年にはアモーリー6世・ド・モンフォールから南仏の支配権を譲り受け、同年の遠征ではポワトゥー、サントンジュ、ラ・ロシェルを得て、イングランド王の大陸領をガスコーニュだけにした。1225年にトゥールーズ伯レーモン7世を再び破門に追い込み、1226年に新しい十字軍を率いて、ラングドックからオーヴェルニュ、さらにプロヴァンスの征服に乗り出した。戦い疲れた南仏の諸都市はほとんど抵抗せずに降伏し、アヴィニョンでの抵抗も3ヶ月で制圧して、王権を南仏に伸ばした。

しかし、11月に帰路のオーヴェルニュ、モンパンシエ城で亡くなった。死因はおそらく戦地で感染した赤痢とされるが、王妃ブランシュとティボー4世が結託して毒殺したという噂も、当時流れた。跡は息子のルイ9世が継ぎ、末子のシャルルは、後にアンジュー伯やシチリア王となった。

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