伝記
セルゲイ・ディアギレフは、1872年3月31日(ユリウス暦3月19日)、ウラル山脈に近いロシアのペルミで、比較的裕福な地方貴族の家に生まれた帝政ロシアの総合芸術プロデューサーである。母は出産の数日後に亡くなり、父の再婚に伴ってペテルブルクで幼少期を過ごし、10歳のときにペルミに戻った。1890年にペテルブルク大学の法科に入ったが、講義にはほとんど出ず、声楽や作曲を学びながらマリインスキー劇場などの演奏会に通い詰めた。従兄弟を通じてアレクサンドル・ブノワやレオン・バクストらと知り合い、のちに雑誌で活動をともにすることになる。しかし作曲の師リムスキー=コルサコフから作曲家としての才能の欠如を指摘され、自ら芸術家となることはあきらめた。
大学卒業後は義母の遺産を手に西欧各地を旅して絵画を買い集め、1897年以降6回にわたり自前の展覧会を開いた。1898年の展覧会には皇帝一家を招き、皇帝ニコライ2世の伯父ウラジーミル大公との知己を得た。同年、ブノワ、バクストらと美術雑誌『芸術世界』を刊行し、1904年の廃刊まで、西欧の新しい美術やロシアの前衛画家の作品、さらに歌川広重や葛飾北斎に至る幅広い芸術を紹介した。1905年にはタヴリーダ宮殿で「ロシア歴史肖像画展」を開き、約3000点を展示した。一方、1899年にマリインスキー劇場の特別任務要員に任命されながら、組織内の軋轢で1901年に追放処分を受けており、西欧にロシア文化を紹介して自らの実力を国内に示そうと考えるようになった。
1906年にパリで大規模なロシア人画家の展覧会を開いて成功し、フランスの文化界や社交界と交流する足がかりを得た。興行師アストゥリュクやグレフュール伯爵夫人の協力を得て、1907年5月、パリ・オペラ座でラフマニノフ自身の演奏をはじめ5日間のロシア音楽演奏会を行い、大成功を収めた。1908年にはシャリアピンを主役に、ムソルグスキーの歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』全幕を上演した。準備は困難をきわめ、公開リハーサルでは本人やブノワ、バクストが臨時の舞台係を務めたが、本番は大成功だった。1909年には最大の後援者ウラジーミル大公が死去し、讒言によってロシア帝室の援助も取り消されたが、奔走して資金を集め、プログラムをバレエ中心に変更した。同年5月19日、シャトレ座の「ロシア・シーズン」でニジンスキーやパヴロワらが踊り、バレエを凋落した芸術と見ていたパリの観客に衝撃を与えた。これが事実上バレエ・リュスの旗揚げとされる。公演は芸術的に大成功だったが、7万6000フランの借金を負い、実質的に破産状態となった。それでもラヴェルに『ダフニスとクロエ』、ストラヴィンスキーに『火の鳥』を依頼した。
1911年に常設のバレエ団バレエ・リュスを結成し、「総合芸術としてのバレエ」という新しい芸術のかたちを確立した。フォーキン、ニジンスキー、バランシンらが振付を行い、ストラヴィンスキー、ラヴェル、ドビュッシー、サティ、プロコフィエフらが音楽を、ピカソ、マティスらが舞台美術を手がけた。ココ・シャネルらは金銭的に援助した。1920年代には新興の競合に押され、後期の公演は「あまりに近代的」と見なされたが、新しい様式を生み続けた。1929年、持病の糖尿病が悪化して8月19日にヴェネツィアで客死し、サン・ミケーレ島の近辺に埋葬された。バレエ団は解散し、団員からはバランシンのように伝統を米国や英国に移した者が出た。パリの占い師から「水辺で死ぬ」と予言されて船旅を恐れたが、最期の地は水の都だった。
同じ年に亡くなった人物
- Otokar Brezina (1929年没)
- ノーマン・プリチャード (1929年没)
- アドルフ・ブロツキー (1929年没)
- ミリセント・フォーセット (1929年没)
- アーネスト・サトウ (1929年没)
同じ地域に関係する人物
- ペタル・クレシミル4世 (1074年没)
- Mekhitar of Sebaste (1749年没)
- マリン・ドルジッチ (1567年没)
- Francesco Barozzi (1604年没)
- ロバート・ブラウニング (1889年没)