HISTORICAL PERSON · 1929年没

フーゴ・フォン・ホーフマンスタール

ウィーン世紀末文化を代表する若きウィーン派の一員で、オーストリアの詩人・劇作家。印象主義的な新ロマン主義の代表的作家とされる。

生涯
1929年没
死亡地
オーストリア共和国(ウィーン / ローダウン)
出生地
オーストリア共和国(ウィーン)
出典
世界地図
オーストリア共和国(ウィーン)

伝記

フーゴ・フォン・ホーフマンスタールは、1874年2月1日、ウィーンの富裕な商家に生まれたオーストリアの詩人・劇作家である。ホフマンスタールとも表記される。家系はチェコ出身のユダヤ系商人イザーク・レーフ・ホーフマンが貴族の称号を受けて地名風の姓を名乗ったことに始まる。父は銀行役員で、フーゴはその一人息子であった。祖父はミラノの伯爵の娘と結婚する前にカトリックに改宗しており、フーゴ自身にはユダヤ、イタリア、ドイツの血が流れていた。小学校には一度も通わず、幼い頃から家庭教師についてギリシア・ラテン文学から中世、ルネサンスまでのヨーロッパ古典を学んだ。

ギムナジウム時代に詩作を始め、16歳の頃には筆名を用いて戯曲や随筆を発表し、文壇を驚かせた。ヘルマン・バールは、詩の作者をフランス人か、パリに長く暮らした40代か50代のウィーン人と思い込んでいたため、16歳の本人に会って言葉を失ったという。12歳年上のアルトゥル・シュニッツラーも、初めて間違いなく天才といえる人に出会ったとシュテファン・ツヴァイクに語ったとされ、二人はすぐに意気投合して自転車でイタリアやスイスまで旅した。1891年には5歳年上のシュテファン・ゲオルゲと知り合い、その主宰する『芸術草紙』に寄稿するなど大きな影響を受けた。1892年にウィーン大学に入り、初め法律を学んだが、のちロマンス諸語、特にその詩法の研究に転じた。シュニッツラーやゲオルゲ、リヒャルト・ベーア・ホフマンらと集い、若いウィーンの一員として世紀末の文化を代表する作家となった。『痴人と死』などの韻文劇で名声を得たが、この作品は森鴎外が訳している。

27歳のとき、世紀転換期の芸術家の精神的危機を架空の手紙の形で記した『チャンドス卿の手紙』(1902年)を発表し、近代批評の先駆とされた。そのころ銀行頭取の娘ゲルトルート・シュレジンガーと結婚し、ウィーン南方のローダウンで暮らした。この作品は彼自身の転機となり、以後は「祝祭」としての演劇を唱えて、ギリシア古典の翻案劇『エレクトラ』(1903年)、『オイディプスとスフィンクス』(1906年)、中世宗教劇『イェーダーマン』(1911年)などを発表した。リヒャルト・シュトラウスと協力して歌劇『薔薇の騎士』(1911年)や『ナクソス島のアリアドネ』を作り、『影のない女』(1919年)も手がけた。1920年に始まったザルツブルク音楽祭の発案者としても知られ、初回にはマックス・ラインハルトの演出で『イェーダーマン』が大聖堂の正面前で上演された。

社会や政治とは終始距離をとり、ウィーンに繰り返し現れた反ユダヤ主義の言説や自身のユダヤ性については、存在しないかのように振る舞った。一方で熱烈な愛国者であり、1912年にはダンヌンツィオがオーストリア・ハンガリー帝国と皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を攻撃したため、一度は称賛した彼と絶交している。1918年の帝国崩壊に深い精神的衝撃を受け、晩年は過去の文化や伝統に結びつく文化評論や書物の編集に励んだ。1929年7月15日、卒中により死去した。息子フランツが拳銃自殺をした2日後、その葬儀の日に、愛用の肘掛け椅子にすわったまま亡くなったと伝えられる。未完の小説『アンドレアス』は、没後の1932年に出版された。

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