伝記
ロベール1世は、ロベール・ド・クルトネーとも呼ばれ、1201年に生まれ、1228年の初めに没した、ラテン帝国の皇帝(在位1221年 - 1228年)である。ラテン皇帝ピエール2世・ド・クルトネーと、ヨランド・ド・フランドルの息子であり、あまりに無力だったため、叔父アンリ・ド・フランドルが固めたラテン帝国は、彼の治世の終わりに大きく縮んだ。父ピエール2世は、1217年に、陸路でコンスタンティノープルに向かう途中、エピロス専制侯テオドロス1世コムネノス・ドゥーカスに、デュラキオンで捕らえられ、まもなく亡くなった。母ヨランドは、1219年の8月に亡くなるまで、摂政として統治を支えた。
ピエール2世の死がフランスで知られると、長男のナミュール侯フィリップは、フランスを離れることを望まず、ラテン皇帝位の継承を放棄して、帝位を望んでいた弟ロベールを支持した。ロベールは、1220年の秋にナミュールを出発し、ラテン帝国に向かう途中で、1220年の秋から1221年の初めにかけてハンガリーに滞在し、義兄のアンドラーシュ2世のもてなしを受けた。ロベールとアンドラーシュ2世は、エピロス専制侯テオドロス1世に対抗するため、同盟を結んだ。アンドラーシュ2世とその継承者ベーラは、ブルガリアとの国境までロベールと同行し、そこでロベールは、アンドラーシュ2世の娘アンナ・マーリアと、ブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世との結婚の媒をした。1221年3月25日に、コンスタンティノープルのアヤソフィアで、ラテン皇帝として即位した。
平和だけを求めたが、帝国は、二人の隣人の野心の餌食になっていた。エピロス専制侯テオドロスは、1221年にテッサリアに侵入し、1224年にテッサロニキ王国を征服して、そこで皇帝を名乗った。ロベールは、ニカイア帝国と戦っていたが、救援の軍を送り、セレスの前で攻められて、トラキアに退いた。教皇ホノリウス3世は、テッサロニキ防衛のための十字軍を呼びかけたが、反応はなかった。1224年に、ポイマネノンの戦いで、ロベールはヨハネス・ドゥーカス・ヴァタツェスに敗れ、ビテュニアを失い、ニカイア帝国と和解せざるをえなくなった。ロベールは、先の皇帝テオドロス1世ラスカリスの娘エウドキアと結婚することを約束した。以前にも、エウドキアと婚約していた。しかし、コンスタンティノープル総主教マヌエル1世が宗教上の理由で取りやめさせたという。ロベールの姉妹マリーは、テオドロス1世ラスカリスと結婚していたため、ロベールはすでにテオドロスの義兄だったが、義理の息子にはなれなかった。1225年には、アドリアノープルをテオドロス・コムネノスに取られた。
ロベールは、帝国への関心を失い、貴族たちには軽蔑された。彼は、ヌーヴィル家のある騎士の婚約者だった娘を奪って、ひそかに結婚した。婚約者の騎士は、数人の貴族を引き込んで、宮殿に押し入り、娘の唇と鼻を切り落とした。ロベールには、守ることができなかった。恥じ、身の安全を恐れて、ロベールは、ローマの教皇ホノリウス3世のもとへ逃れた。教皇は、コンスタンティノープルへ戻るよう彼を説いた。しかし、1228年の初めに、戻る途中のモレアスで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ステファン・ネマニッチ (セルビア王) (1228年没)
- マリー・ド・クルトネー (1228年没)
- イザベル2世 (エルサレム女王) (1228年没)
- ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ (1228年没)
- Anders Sunesen (1228年)
同じ地域に関係する人物
- ヨハネス6世カンタクゼノス (1383年没)
- Timotheos (紀元前339)
- ラケス (将軍) (紀元前418年没)
- Dimitrios Ypsilantis (1832年没)
- Echecrates of Phlius (紀元前400)