HISTORICAL PERSON · 1229年没

Helinand of Froidmont

吟遊詩人として国王フィリップ2世の寵愛を得た後、1190年ごろシトー会修道士となった。1211年から全49巻のラテン語世界年代記『年代記』を編み、ヴァンサン・ド・ボーヴェの史書の基になった。

生涯
1229年没
死亡地
—
出生地
フランス共和国(オワーズ県 / Pronleroy)
出典
世界地図
フランス共和国(オワーズ県)

伝記

エリナン・ド・フロワモンは、中世の詩人、年代記作者、教会著作家である。1150年ごろ、フランドル人の両親のもと、フランスのプロンルロワに生まれ、1229年より後に没した。没年は1237年ごろともいわれる。ボーヴェのラルフに学んだ。吟遊詩人としての才能がフィリップ・オーギュスト王の気に入られ、しばらくは世俗の楽しみにふけったが、1190年ごろ、ボーヴェ司教区のシトー会修道院に入って修道士となった。それまでの享楽的な生活から、修道院では敬虔さと苦行の模範になった。修道の務めのあいだの時間は教会の研究にあて、司祭に叙階されたのちは、説教と著述にあてた。没した日は、1223年とも1229年とも1237年とも、2月3日とも伝えられる。ボーヴェの教会は彼を聖人として敬い、2月3日を祝日としている。ペルセーニュのシトー会士エリナンと混同されることがあるが、その根拠はない。

修道院に入ってまもない1194年から1197年のあいだに、古フランス語で『死の詩』を書いた。50連の詩で、エリナンは死に、自分の最良の友たちを訪ねて世を捨てるよう勧めてほしいと頼む。各連は8音節12行で、脚韻はAAB AAB BBA BBAと組まれ、後の詩人たちがこの形を模したため、「エリナン連」と呼ばれている。この詩で死は、至るところにいて活発に動く存在として現れる。題名の「ヴェルス」が、ミミズと詩の二つの意味をもつ同音語である洒落を除けば、不気味な要素はない。反復法、隠喩、語呂合わせなどをよく使った、歌うような説教で、この詩は吟遊詩人としての彼の才能を伝える唯一の証言であり、彼はヴィヨンやシャトランら15世紀のフランスの詩人の先駆者とされる。有名な説教師として、60編を超えるラテン語の説教も書いた。整ったラテン語で書かれ、異教の詩人や教父への、すぐれた通暁を示している。

最もよく知られているのは、1211年から1223年にかけて編んだ、ラテン語の世界年代記『年代記』で、49巻からなり、現存するのは半分に満たない。この中に彼は、『自己認識について』『君主の善政について』などの道徳の論考、教会の祝日の説教28編、脱走した修道士に修道院へ戻るよう勧める書簡『堕落者の回復について』などを組み入れた。年代記そのものは、幅広い資料から取った文章を集めたものである。ボーヴェのヴァンサンは、世界史を同時代まで語る『史鑑』を、この年代記に基づいて書いた。現存する部分は、天地創造からアレクサンドロス大王の死までを扱う第1巻から第18巻、ヴァンサンの『大鑑』に写された第19巻から第44巻の断片、634年から1204年までを扱う第45巻から第49巻である。第45巻から第49巻は、シトー会士トロワ・フォンテーヌのオーブリの年代記(1241年ごろ)の資料となった。

カトリック百科事典は、この年代記は批判が足りず、歴史としての価値は大きくないとする。しかしエリナンは、ときおり叙述を中断して、資料のあいだの食い違いを読者に知らせ、スコラ学の論考のようにそれを調和させようとしており、批判のない編者とはいえない。全体の構成は年代順だが、聖書の注解、占星術に反対する論考、聖人の伝説、動物の世界、ラテン文学や民間の伝承の材料など、しばしば脇道にそれる。聖杯を意味する「グラール」という語の意味についての、中世の権威としてよく引かれ、マームズベリのエイルマーの飛行の記述の出典としても挙げられる。

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