伝記
ジャラールッディーン・メングベルディーは、1199年に生まれ、1231年8月15日に没した、ホラズム・シャー朝の第8代スルタン(在位1220年〜1231年)である。スルタンのアラーウッディーン・ムハンマドの子で、母はインドの出身で、そのために肌が黒みを帯びていたという。1217年から1218年のバグダード遠征ののち、父から、旧ゴール朝領のガズナ、バーミヤーン、ゴールなどを領地として与えられた。
1219年の初め、メルキト族の残党と、それを追うモンゴル軍の一隊が、ホラズム・シャー朝の領土に入った。アラーウッディーンは両軍を討とうとして進軍し、ジャラールッディーンも一軍を率いて従った。モンゴル軍は友好の意思を示し、戦利品の一部を贈ったが、アラーウッディーンは戦いを挑んだ。ジャラールッディーンは右翼を率いてモンゴル軍を破り、危うくなった父の中軍の救援にも駆けつけて奮戦し、両軍は決着がつかないまま軍を引いた。1219年秋にモンゴルの攻撃が始まると、アラーウッディーンは退却しようとし、ジャラールッディーンは反対して、自分に軍を預けるよう説いたが、容れられなかった。アラーウッディーンがカスピ海の小島に逃れると、ジャラールッディーンも弟たちとともに、アバスクン島に落ちのびた。末弟のウズラグ・シャーが皇太子に指名されていたが、病床の父は、ジャラールッディーンが国を救える人物だとして、後継者に指名しなおした。父が病死すると、島を脱して首都クフナ・ウルゲンチに戻り、1221年にスルタンに即位した。市民には歓迎されたが、軍の中心を成すカンクリ族は、ウズラグ・シャーを擁立しようとして、彼を殺す計画を立てた。陰謀を知った彼は、すぐに町を脱出し、モンゴルの包囲を破ってニシャプールに逃れた。
1221年2月に領地のガズナに着き、多くの人々を集めて兵とした。その数は6万から7万にのぼった。同じ年の春、モンゴル軍の司令官シギ・クトクの3万の軍を、カーブル近くのパルワーンで破って大勝した。しかし戦利品の分配をめぐる問題から、一部の指導者たちが軍から離れて、兵の数は半分になった。この知らせを受けたチンギス・カンは、本軍を率いてアフガニスタンへ急ぎ、インダス川のほとりでジャラールッディーンに追いついた。ジャラールッディーンは700人の兵とともに突撃を重ねたが、包囲を破れず、最後の突撃のあと、鎧を脱ぎ、馬ごとインダスの濁流に飛び込んだ。盾を背負い、旗を握ったまま川を渡りきり、チンギス・カンは、追撃しようとする兵を止め、皇子たちに、彼を模範とするよう言った。彼はインドの北部に逃れた。1222年に、イルトゥトゥミシュに保護を願い出たが断られ、北インドの諸勢力が連合して迫ると、3年のインド滞在を終えて帰国した。
1223年に、砂漠を渡ってケルマーンに着き、領主バラクを帰順させ、イスファハーンで兄弟のギヤースッディーンから支配者の地位を取り戻した。1225年には、タブリーズを都とするイルデニズ朝を滅ぼし、ジョージア王国に遠征して首都ティフリスを占領し、イスラーム世界の防衛者として名を上げた。1227年8月26日には、イスファハーンの城外でモンゴル軍と戦い、左翼を敗走させたが、伏兵に阻まれて敗れた。その後、コーカサスの連合軍に勝ち、1229年7月から、アフラートを包囲して、占領した。1230年8月、ヤッス・チメンで、ルーム・セルジューク朝とアイユーブ朝の連合軍に大敗し、配下の将校は彼を見限り、勢力が衰えた。オゴデイが派遣した追討軍も、イラクに迫った。
同じ年に亡くなった人物
- ヴワディスワフ3世ラスコノギ (1231年没)
- 土御門天皇 (1231年没)
- エルジェーベト (ハンガリー王女) (1231年没)
- 趙汝适 (1231年没)
- パドヴァのアントニオ (1231年没)
同じ地域に関係する人物
- アッタロス (将軍) (紀元前336年没)
- ガイウス・ブロッシウス (紀元前129)
- イヴァン・アセン3世 (1303年没)
- アンドロニコス・コムネノス (1142年没)