伝記
メアリー・ハリス・ジョーンズは、1837年8月1日に洗礼を受けたと記録されるアイルランドのコークの出身で、アメリカ合衆国の労働運動家として知られ、「マザー・ジョーンズ」の名で呼ばれた。正確な生年月日は不明である。カトリックの小作農リチャード・ハリスとエレン(旧姓コッター)の娘として生まれ、一家は大飢饉に襲われ、北アメリカへ移住した数百万のアイルランド人家族の一つとなった。カナダへ移ったのは彼女が10歳のときとも、1835年ともいわれ、時期ははっきりしない。移住先では、移民でありカトリックでアイルランド系であることから差別を受けたという。
トロントの師範学校で学び、卒業はしなかったが、1859年8月31日、23歳でミシガン州モンローの修道院付属学校の教師の職を得た。月給は8ドルで、その学校は「気の滅入る場所」と評された。やがて教職に倦んでシカゴ、次いでメンフィスに移り、1861年に鋳鉄工組合の組合員で組織者でもあるジョージ・ジョーンズと結婚した。夫の収入で暮らしが成り立つと考え、家事に専念した。ところが1867年、メンフィスで流行した黄熱病で、夫と5歳未満の4人の子を同時に失った。彼女はシカゴに戻って洋裁店を開き、上流階級の仕事を請け負ったが、1871年のシカゴ大火で家も店も財産もすべてを失った。多くの人々と同様に町の再建に加わり、自伝によれば、この経験が労働騎士団への参加につながったという。
労働騎士団は会員の大半が男性で、1870年代半ばには100万人を超える全米最大の労働団体になっていた。彼女はそこでストライキを組織し始めたが、初めのうちは失敗が多く、警官がデモ隊に発砲して死者が出ることもあった。1886年のヘイマーケット事件の後に騎士団は衰え、彼女は主として炭坑労働者組合(UMW)に関わるようになる。ストライキ中の炭鉱労働者のピケを率い、会社側がスト破りや民兵を送り込んでも、働く人々にストを続けるよう励ました。全国のストライキで組織者かつ教育者として活動し、とりわけ炭坑労働者組合やアメリカ社会党と深く関係した。ストを行う労働者の妻や子どもたちを組織してデモを行う手法で名を知られるようになった。1902年、スト中の鉱山労働者の集会を禁じる差止命令を無視した裁判の席で、ウェストバージニア州の検事リース・ブリザードに「アメリカで最も危険な女」と呼ばれた。検事は、彼女が指を曲げるだけで2万人の満足した男たちが道具を置いて出ていくと述べたという。
1903年には、ペンシルベニア州の鉱山や絹織物工場での児童労働の規制がゆるいことに抗議して、「子供の十字軍」と呼ばれる行進を組織した。子どもたちは「私たちは遊ぶ時間が欲しい」「私たちは学校へ行きたい」と書いた旗を掲げ、ケンジントンからニューヨーク州オイスターベイにあるセオドア・ルーズベルト大統領の家へ向かった。大統領は面会を拒んだが、この出来事は児童労働の実態を世間に知らしめた。世界産業労働者組合(IWW)の設立にも関わった。1930年11月30日に死去した。1976年に創刊された雑誌『マザー・ジョーンズ』は、彼女の名にちなんで名づけられている。
同じ年に亡くなった人物
- ルイージ・ファクタ (1930年没)
- Mary Eleanor Wilkins Freeman (1930年没)
- サー・ジョセフ・ウォード (1930年没)
- Paul Wiesner (1930年没)
- ロバート・クルーヘン (1930年没)
同じ地域に関係する人物
- モンゴメリー・ブレア (1883年没)
- ウィリアム・コルビー (1996年没)
- フィン・ロンネ (1980年没)
- トーマス・シェリング (2016年没)
- イヴリン・リアー (2012年没)