伝記
デーヴィッド・ハーバート・リチャーズ・ローレンスは、1885年9月11日に生まれたイギリスの小説家・詩人・評論家である。炭鉱夫の父アーサー・ジョンと、教師だった母リディアの第4子(3男)で、ノッティンガムシャーのイーストウッドという炭鉱町で幼年期を過ごした。炭鉱の組長だった父と教養のある母の仲が必ずしもよくなかったことは、初期の作品に大きな影響を与えたとされる。美しい田園と汚れた炭鉱町の風景は小説にもたびたび現れ、彼はこの風景を「私の心のふるさと」と回想している。
1891年から1898年まで公立小学校で学び、初の州会奨学金を得てノッティンガム高校に進んだ。1901年に卒業すると医療器具会社の事務員になったが、肺炎を患って3か月で辞めた。療養で近くの農場を訪ねた際に、娘のジェシー・チェインバーズと親しくなる。ジェシーら10代の友人はみな読書好きで、ローレンスはそれ以来、生涯にわたって文学を愛するようになった。1902年から1906年までイーストウッドの小学校で代用教員を務め、ノッティンガム大学で2年間学んで教職の資格を取り、ロンドン南郊の小学校に勤めた。教職のかたわら、詩や短編、小説の草稿を書いた。1907年の暮れには新聞社の短編小説コンテストに応募して入賞している。
1908年の秋にロンドンへ移り、クロイドンの学校で教えながら執筆を続けた。作品が雑誌の編集者フォード・マドックス・ヘファーの目に留まって『菊の香り』が書かれ、これが出版社ハイネマンの注目を引いて、収入はしだいに執筆が主になった。『白孔雀』を脱稿した1910年にルーイ・バロウズと婚約するが、その直後に母が病没し、数か月のあいだ立ち直れなかった。この体験は1913年の小説『息子たちと恋人たち』に描かれている。肺炎が再発した1912年には婚約を解消した。同年3月、就職の相談で旧師アーネスト・ウィークリーを訪ね、その妻フリーダと3人の子供に出会い、フリーダとミュンヘンへ駆け落ちする。イギリスのスパイと疑われて逮捕されたため、アルプスを越えてイタリアに渡った。1913年に一時イギリスに戻り、マンスフィールドらと知り合う。イタリアのラ・スペツィアで『虹』と『恋する女たち』を書き、1914年6月13日、離婚が成立したフリーダと再婚した。
1915年9月に『虹』を出版したが、11月に猥褻だとして発禁処分を受けた。その後はコーンウォールに移るが、1917年10月にスパイ容疑で立ち退きを命じられ、バークシャー、ダービーシャーと移った。1919年にイギリスを離れ、そのころには英文学作家として広く知られていた。1922年に東回りでアメリカへ向かい、オーストラリアに立ち寄ってから9月にアメリカに到着し、2年間滞在して『アメリカ古典文学研究』を書いた。1923年にメキシコに向かい、1925年3月にマラリアと結核を併発して命は取り留めたものの、療養のためヨーロッパに戻る。1926年からフィレンツェに住んで最後の長編『チャタレイ夫人の恋人』に着手し、1928年に刊行した。1929年には聖書論『黙示録』を完成させ、フランスのサナトリウムに移り住んだ。1930年3月2日、フリーダらに看取られて世を去った。遺灰はフリーダの再婚相手の手でアメリカのニューメキシコ州タオスに納められた。
日本では1920年代ごろから注目され、没後の1930年代には阿部知二、伊藤整、西脇順三郎らによって広く紹介された。戦後には、伊藤整が訳した『チャタレイ夫人の恋人』がわいせつだとして罪を問われ、チャタレー事件が起きた。
同じ年に亡くなった人物
- アンナ・リー・メリット (1930年没)
- ミゲル・プリモ・デ・リベラ (1930年没)
- Thomas Dewar, 1st Baron Dewar (1930年没)
- Joaquim Arcoverde de Albuquerque Cavalcanti (1930年没)
- メアリー・ハリソン・マッキー (1930年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョルジュ・リブモン=デセーニュ (1974年没)
- シドニー・チャップリン (1885年生) (1965年没)
- イーゴリ・マルケヴィチ (1983年没)
- メフメト・アブデュルアズィズ・オスマンオウル (1977年没)
- スワヴォーミル・ムロージェク (2013年没)